2002年

当時交際していた彼と。
日記ではWちゃん、マネージャー、
などと表記。

2002年2月1日(金)

自分のほうだけを向いてくれないからって、急に悪口を言い始めるなんてバカみたい。

私の中身は前と後とでなんら変わってはいない。
なのに同じ事をしても急に悪口の対象になってしまうの?

自分だって喜んで一緒にいたんでしょ。
私はそんなことした覚えはないし、嫌がっているのを無理強いするはずもない。

気持は分かるけど、ほんっとにバカみたい。くだらない!

好きなら誰がなんと言ってもその人の為にいればいいでしょ。
意地悪したいならしたいとはっきり言えばいい。

気持は分かるけど、大っ嫌い。
噂なんて大っ嫌い。
足の引っ張り合いなんて大っ嫌い。
私と居る時のあなたが全て。目の前の君が全て。

私はせっかく生きているんだから、私が好きな人で私といて幸せな人がいたらいくらでも一緒にいたい。
ただ苦しんで欲しくない、苦しくはないんだと、苦しむことになりはしないと、幸せだと、確信することはいくら神経を注いで推し量ってみても足りないと思うけど、それでもやっぱり幸せな方に傾くなら、それがどんな状態でもいつまでもいつも傍にいてあげる。
時間と体力が許す限り私が好きな人の傍にいく。
好きな人を全力で応援してあげる。怒る。泣く。笑う。
今も未来も幸せになれるように考える。とっても難しい。
だけど逃げたくない。もう放りださない。
離れていったら、ゆっくり見ている。
自分が幸せな距離をゆっくり掴めばいい。

この世には私の好きな人がたくさん居て、それだけで十分すごい。
異性に限って一人にしなくてはいけない理由は私にはわからない。
でもそれについて苦しむのはやめてしまった。
いつか分かるのかも知れないけど、今それを恐れて躊躇する理由は何もない。
躊躇してやめたら、明日死ぬかも知れない。 

欝状態から突然「躁転」し、唐突に強気な発言が目立っています。

会社では「別の人みたい…」と言われました。

会社で働いた後も、パワーが有り余っていると感じ、

PCインストラクターのアルバイトまで始めてしまっています。

2002年2月5日(火)

過去の日記を久しぶりに読み返してみた。
今の私は、弱いままだけどとても強くなった。

今の気持を大切にする為なら大抵のことはやれる。
自分の思っていることがハッキリと分かるようになった。
こんなにクリアに自分の気持が分かるなんて、そしてそれ相応の反応や対処が外部に対して出来るようになるなんて、夢にも思わなかった。

だけど私は自分が少しおかしいとようやく気づきだした二十歳くらいから、ずっとこうなりたくてなりたくてもがきながら生きてきたんだ、今もずっと不安定だけれど私はとても幸せだ。

自分の気持ちが分かるって、自分のために動ける最低限の強さと脳みそがあるって、なんてすごいことなんだろう。

私は私の手で、欲しいものを掴むことができる。
たとえ叶わなくても、少なくともまっすぐに努力することができる。

人の為じゃないからもう迷いはない、持っている力の全てを注げるんだ。

力を注げばそれなりの手ごたえが返ってくる、それも分かるようになった。

人、もう訳も無く怖くはない。
すごくすごく複雑で危なっかしくて愛しい心をみんな持っている。
私の性格のせいか慣れないせいかうまくいかないことも多いけど、目の前にその人がいることを大切にできる、そうすることで生きていると感じる、現実には色鮮やかで素敵なものがたくさん目まぐるしく動いている。

私はこれからなんでも見ることができて、自分だけしか出来ない受け止め方で受け止めていくことが出来るんだ。

昨日、急にたくさんの人の中でどうにか生きている重さが押し寄せてきて、辛くなって寂しくて疎外感や劣等感がどうしようもなくて、うーって声出して泣きながら振り切ろうとして家まで走った。

だけどその次の日は、さあまたちゃんと頑張ろうって思えるじゃないか。

2002年2月7日(木)

私は自分から死ぬことが出来ない。
辛い時、死ぬことは何度も考えたけど、そのうち私が死んだ後の母や父や姉や姉の旦那や、親戚や友達の姿が浮かんでくる。
私にはできない。

出来ないと分かったら、生きていくしか道は残ってない。
生きていくと決まったら、このまま呻きながら長い年月をやり過ごすなんて出来そうになかった。
こんなに辛い毎日をずっと送りつづけるなんて耐えられそうになかった。
何より逃げ腰の生き方を死ぬまで続けるなんて、そんな姿、私自身が直視できない。

なら、強くなるしかなかった。
とことん強くなって、動じないようになろう。
そして苦しみに慣れてしまえ。
この世の全てを諦めてしまえ。
出口は見えなかった。
毎日頑張ったって苦しみから逃れられる保証は何もなかった。
一生頑張っても苦しいままかも知れなかった。

生きていくのはやっぱり苦しいよ、先生。
だけど私はこの世界がすきだって今は言える。

2002年2月9日(土)

鬱が、来たかもしれない。
涙が流れる。
しょうがない、また耐え抜くしかない。

だけどやっぱり怖い。
私は真面目だから、もっと人に助けを求めたほうがいい?
それとも人に助けてという事がもっと私を苦しめるのか?

強気な躁状態は長くは続かず、また元の欝状態に戻りました。

会社の派遣社員仲間に告げると

「また今まで通り働けば大丈夫だよ」と励ましてくれました。

2002年2月11日(月)

いつだったかマクドナルドで、私がいつもの笑顔で「薬ないと眠れないの」と言った時、同じように笑顔だったあなたの表情がさっと変わった。
私を真っ直ぐ見たままで。

あなたはすぐもとの顔になったし、それについて何も言わなかったけど、私の笑顔につられなかった一瞬が心に残った。

だから気付けた、私はそれが嬉しかったんだってことに。

2002年2月13日(水)

吐きそう。
明日は会社のあとPCスクールでのバイトがある日。
月~金の会社と、週3日の夜バイトの掛け持ちはいつまで持つのだろうか。

2002年2月14日(金)

会社で廃人状態で過ごす。
私の職場は薬関係で、抗鬱薬のポスターがデカデカと貼ってある。

「人前で話すのが怖い・電話が怖い・会食が怖い・・・ 人前に出るのが怖いあなたは社会不安障害かも知れません。」

いつもポスターの前を素通りするのだが、指をさして大声で「私、これなんです」と言いたくなる。

アルバイトは風邪がぶり返したことにして休んだ。
マンションに帰って、音楽をかけて2時間ほど機械みたいに歌い続けた。

2002年2月19日(火)

私は薬を使わずに生きていきたくてたまらなかった。
辛くても仕事クビにならないラインを自分で判断して、ギリギリまで薬を使わずにやっていきたい、と先生に言ってあった。

それで毎日必死に頑張って鬱を乗り越え、調子が良くなって、睡眠薬と抗鬱剤以外の薬は殆ど使わないようになっていた。

先週、急に元気が無くなったことに気付いた時、もの凄い絶望感に襲われた。

もう嫌だ、あんなに辛い鬱は二度と耐えられない、最後だと思ったから死ぬ気で頑張ったんだ、こんな繰り返しはもう嫌だ、せっかく薬を減らしていけると思ってたのに、なぜこんなに無理してまでして生きていかなきゃならないんだ!
・・・もう十分頑張ったから許してください。と思った。

抗不安薬を飲むことなど思い出しもしなかった。

でももう追い込まれて見栄が無くなった私は、ネットの掲示板や医者や友達や姉や会社の人に、嘆きを思うまま撒き散らした。
以前の私ならこういうことは極力しなかった。
というか他人に助けて貰う方法で元気になろうとしても、心から人に弱みを見せることは私にはどうしても上手く出来ないことだった。

今回、みんなに声を掛けて貰い、「薬を飲むのは悪くないよ、仕方ないよ」と説得され、泣く泣く薬を飲んでみたら・・・
拍子抜けするほど急にラクになってしまった。

なぜあれほどまでに薬を増やすことに絶望を感じていたのか、自分でも分からないくらいだ。
日曜日まで全てに途方に暮れていたのに、会社にも行けたし、集中力はないけどなんとか過ごせるじゃないか。

こんなことなら、不安定になった時にパニックにならずに、すぐ安定剤を飲んで静かにしていればなんてことなかったのかも知れない。

大騒ぎして恥ずかしい。
まあすぐ思いつめちゃうあたりも性格だししょうがないか。

とにかく会社にはなんとか行けるみたいだ・・・ああホッとした。
みんなに感謝。私はまだ生きていけます。

インストラクターのバイトはさすがにもう続けられないだろうと思い、土曜日に話をしに行って辞めて来ました。
短い間だったけど仲良くして貰ってたから、
話しながらすごく寂しくなって泣きそうになりました。

2002年2月21日(木)

なんだか仕事がたくさんある。

最近チームの人が出払っている日が続いていて、部屋を独り占めして作業を進めている。
やることはたくさんあるが、一人なので気楽なことこの上なし。

今は日本語報告書の英語版を準備するのが至急で、英訳専門の派遣の同僚と連携して仕事をしている。
日に3回ほど会話してお互いのペースなど確認しあっている。

お昼休みを取るのも食べるのも面倒くさいので、社内の売店で栄養バランス食品を買い、パソコンの前でかじりながらずっと仕事を続ける。

喉が痛くてたまらない、また新しい風邪をひいたようだ。

昨日は派遣会社のスタッフフォローの人が来社して、契約更新の件と最近の体調の件を話した。

食欲がぜんぜんない、朝も昼も何も食べなかったりする、と言ったら、朝も昼も食べないで仕事続けるなんて信じられない、バナナとかヨーグルトとか嫌いですか、何か食べなくちゃ、と言われた。

そうかヨーグルトか、と思い、昨日は言われた通り昼にヨーグルトを食べた。
どうも放っておくと何も食べずに過ごしてしまうらしい。

今日は帰ってから母親から別件で電話があり、ついでに言われた食べ物を忘れないうちにテーブルに出しておいた。
ユンケル、卵、納豆、・・・
一度目につくところに出しておけば、あとは機械的に食べるだろうという発想。

2002年2月22日(金)

朝食も薬も忘れて出社。
食べないのではなく忘れているのだ。
今週から化粧もしなくなってしまった。
化粧しないのってものすごく楽だ。

朝一番に派遣の同僚と仕事のことで話し合う。
とりあえず結論が出て部屋に戻る。
しばらくして自分の言葉が足りなかったような気がして、メールでフォローをする。
だけどだんだん更に不安になってくる。
仕事をする気が起きない。

ああ、薬を飲んでない、と思い出す。
今日は昼にはお腹が空いて、パスタランチを食べることができた。
薬も飲む。ソラナックスとリタリン。

午後になって、不安でまた同僚の所へ行って、

「私、朝に、仕事上困るようなこと○○さんに言わなかった?」

と聞いてみる。

「え・・・?私に?・・・別に全然、何にも?ぜんぶちゃんとしてたよ?」

「そう?良かった。薬飲んでなかったしなんか訳わからなくなってるから・・・」

「薬飲まなくても平気じゃない?全然おかしくなかったよ」

「うーん、言ったことについてあれで良かったのかとか、不安になっちゃうんだよね・・・。考え出すと止まらないの、いいや、ごめんね、ありがと」

部屋に戻る。なんか余計に変な人と思われた気がする。

これでまた一週間、乗り切れた。

リタリン:「合法覚せい剤」と呼ばれた、気分を高揚させる薬。

社会問題になり、現在はナルコレプシー以外には処方されないようです

2002年2月25日(月)

とても眠い一日だった。
パソコンの仕事って、眠いとどうしようもない。
咳がまだおさまらなくて苦しい。
ちょっと人恋しい。

2002年2月26日(火)

なんだか誰かと一緒にいたい時は、誰を誘えばいいんだろう。

電話はかけるのが苦手だから仕事の件以外は殆どしない。
目の前に相手がいないと、しぐさとか目線とかから相手の心の動きが掴めず、不安で話しづらいのだ。
傍にいて、会話が途切れてもお互い気にならない相手は誰?

私は女性がどっちかというと苦手なので、どうしても思い浮かべるのは男性になってしまう。
こちらから誘っても期待を持たないで普通にしてくれる人?それは誰?
こんな時、会いたい人は思い浮かぶけど、ずっと続くのかどうか分からない感情に付き合わせることはできない。
私がやりたいことを行動に移すのは自由だ。
でも誰かを巻き込むなら、やっぱり私の気まぐれで相手の大事な時間を奪うことになったらダメだ。

明日は会社の後バーに顔を出して、顔見知りの元気なおじさんに会いに行ってみようかな。
それで少しお酒飲んで、踊って貰うのはどうだろう。

2002年2月28日(木)

自分がこんなに寂しがりやだとは知らなかった。

人といて楽しいと思ったことも無ければ、一人で寂しいと思ったことも無かった。
ただただ、流れに合わせる。
学校では字を書く手が震え、朗読の時は声が出なくなり、お弁当の味がわからない。
いくら短い会話の後でも、気付くといつも汗をかいている。
ひたすら目立たないように目立たないようにやり過ごす。
何を言われても何も感じない。
笑っていれば大抵空気は悪くならないことを覚えていた。
いつも怖いので何を言われても曖昧に笑っておく。
テストと名のつくものは完璧に近い点を取るため全力を尽くす。

だけど私は全然気がつかない、自分の感情がどこにもないことに。

成績が良くなかったら、きちんと生活していなかったら、母親に失望されてしまう。嫌われてしまう。
母を安心させるために、母の優越感を保つ為に、私は生きていた。
母はよく寝る前に私に相談をした。

「お姉ちゃんは本当にめちゃくちゃで困る、あなたのようだったらいいのに」

私は夜中までずっと話を聞いてあげる。
私の居場所はそこがすべてだった。

2002年3月1日(金)

会社で「仕事します!」という表情を作る気力がもうない。
元気がないと、やっぱり人に避けられる気がする。
だけど無理にはつらつとして見せようとするのは疲れてしまった。

 2002年3月3日(日)

「寂しさを紛らわすために行動すると、だんだん変な事が起きてくるんだよ」

先生が言う。

私もそれはもう身にしみてわかっているはず。

一人で耐えるのは辛い。だけど人に助けを求めても辛い。
孤独であるということを、どう諦めていくか。
開き直って苦しみ過ぎずにやっていけるようになるのが課題。

「カウンセリング最近してないよね、どうですか?あなたの頭の中は整理されてるみたいだから、無理に進めはしないけどどうする?」

カウンセリングを二週間後に受けることにした。

土曜日、姪の初節句。姉のマンションでパーティー。
私は食事の用意を何も手伝わず0歳の姪とたわむれ続け、食べた後はいつの間にか寝てしまっていた。
姉の旦那が私のことを「大人子供」と言ってるのが聞こえた。
その後実家に寄って殆ど寝て過ごした。

去年、めちゃくちゃになって「このままでは自殺してしまう」と思った時、私は睡眠薬を飲んですぐ寝てしまうことを覚えた。
辛すぎて死ぬ代わりに、とりあえず寝て時間を稼ぐのだ。
起きた時は、発作は治まっている。
重たい頭で朝日の虚しさを感じていれば済む。

2002年3月4日(月)

少し気分の軽い一日だった。
チームの花粉症の人がとても辛そうで声を掛けづらい。

お昼休みの後、いつも忙しそうな隣の席の社員に

「○○さん、お昼ちゃんと食べたんですか?」

と訊いたら、無言で見つめられ微笑まれた。

「(笑いながら)なんですかそれ、食べてないってことですか?」

とまた訊いたら、「んーちょっとだけね・・・」と嬉しそうにしていた。

やっぱりこの人は変わっている。

2002年3月5日(火)

今日はとても不安だった。
理由は無し。

会社にいても外を歩いていても、自分の皮膚の外側の世界に違和感を感じる。
傍で大きな音を立てられたら飛び上がってしまいそうだ。

不安。不安。不安。
理由が分かれば救われるのに。

寂しい病の次は不安病。
薬を飲んでもあまり変わらない。

2002年3月7日(木)

不安が強い今は逆効果と思い、今日からリタリンを止めてみた。
なかなか好調。

昨日はじっとしていられず、会社帰りに髪を切り、久しぶりに踊りに行った。
両方、半ばやけっぱちの賭けの気分。
余計苦しくなるか、少しは楽になるか。

「最近こなかったじゃん」と数人に声をかけられ一緒に踊り、いい調子で殆ど間をおかずに短い時間でたくさん汗をかいた。
ダンスというよりスポーツという感じ。

挨拶する時と踊っている時は少しは笑顔を作る。
向かい合って踊る時に相手の目を見つづけるのは辛いので、顎のあたりを見る。
リズムにのめり込むには前と違って気合が必要。

一曲終わるごとに人込みを避けて隅っこに逃げ、カクテルのグラスを持ってぼーっとダンススペースを眺める。
今日は誰が来てるかな、上手な人いるかな。

みんなのように会話する気は起きない。
手を少し振って挨拶する顔見知りはたくさんいても、どこの誰だか知らない。

賭けの結果、今回はよかったみたい。嬉しい。

2002年3月11日(月)

昨日、とても屈辱的なことがあった。
少しずつ気持ちがよどんで悲しくてそこに居られなくなった。
突然、帰る支度をし始めていた。
帰り際、その相手に何事もないかのようにあっけらかんと話し掛けられた。
顔を見たら腹が立ってきて、思わず相手の向こう脛を押し付けるように強く蹴った。

悲しくて悲しくて会社に行けないかもと思った。
でもここで行かなかったらダメだ。前の私と同じになる。
ギリギリまで起き上がれなかったけどなんとか行くことができた。
そして会社に着けば、何も知らない職場の人に目のうつろな笑顔で挨拶し、上司に今日の段取りについて指示され、相談、確認する。
しびれて思うように動かない頭と体でロボットみたいに。
でもそうやって仕事をしたらだんだん落ち着いてきた。 

休日に友達の家で集まって遊び、雑魚寝していたら、

明け方に仲間の男性一人にのしかかられ、キスされました。

2002年3月12日(火)

まだ落ち込んでて起きれなかった。
30分の遅刻。ますます落ち込んだ。

仕事をしている間は救われる。
昼休みにまた落ち込む。

午後もコツコツと作業を続けた。
今はPCでのデータ加工作業が急ぎなのだ。
部長に半ギレの隣の席の社員の愚痴を聞いたり、励ましたり。

仕事をたくさんして少し元気になって、夕食を作ることにした。
残りものの野菜を全部いれて「具沢山の味噌汁」。

じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、サツマイモ、長ネギ、豚肉。
いつもはじゃがいもと玉ねぎは味噌汁にはせず、鶏肉と一緒にトマト煮などにするが、面倒くさいので全部一緒に味噌汁にしてしまうことにする。
豚肉をごま油で炒めてから水とダシを入れ、野菜と一緒に煮て味噌で味付け。

やっぱりなんだか変な味噌汁が出来た。
でも栄養不足が気になってたので満足。

2002年3月13日(水)

バリバリとデータ加工作業を進める。
一日中PCを見つづける。休憩時間も殆どとらない。
緊張さえしていなければ、黙々と手作業を繰り返すのは得意なのだ。
ちょっと疲れるけど、ちゃんと目標が見えてる仕事だから精神的には楽。

隣の席の社員は相変わらずパニクっている。
部長を呼びつけて怒鳴る。私は席を外そうかどうしようか迷う。
今どの段階まで進んでいるのか忘れる。
私は「これの途中ですよ」と何度も言う。

今のペースでは期日までに出来そうにない感じ。
出口が見えてこないがとりあえず作業し続けるしかない。
部長を何度も呼んで、言っても仕方ないこと言う暇があったら、作業しましょうね。
「どうしたらいいと思う?!ああいう人」笑顔でその愚痴を聞き、それとなく促す。
とにかく落ち着かせようと、空気を緩めることに気を配る。
私が、ちゃんと、ずっと仕事のこと一緒に考えますから。
一人にしませんから。

自分よりいっぱいいっぱいな人を見て対処の仕方を考える私は鬱じゃない。
そういう余裕の出せる自分はどこか一生懸命じゃない気がして、少し嫌な感じ。

とても普通で、意地悪だ。

2002年3月14日(木)

隣の席の社員は徹夜二日続きだ。
声に力が無いし、思考力が低下してきている。
ものすごく几帳面な人なので、疲れていても今日も夜中までやる気だ。

過労で倒れられたらどうしよ。

私も期日が気になるし、
彼が気の毒なので今日も遅くまで付き合って仕事した。

2002年3月16日(土)

19歳の時に初めて男の人と付き合った。
お願いです、別れてください、と頼んだのは私。
新卒で入社した会社の先輩を好きになってしまった自分に気付いたのだ。
「なんであんな奴のとこ行くんだよ!!」初めて本気で怒られた。
なんどもお願いして、承諾して貰えるまで一ヶ月かかった。

「色々考えたけど、お前まだ若いもんな。俺、可愛いだけで人形扱いしてたと思う。まだ色んな奴、見てきたらいいよ。俺もそのあいだ、ゆっくりいろいろ見ることにするよ。でも、最初に付き合ったのが俺で良かったよ。頭もいいし顔もいい。だけど次に付き合うのは俺よりカッコいい奴にしろよな。どんどんステップアップしていけよな。そんでお前が30歳になった時、まだ一人だったら、俺が結婚するよ」

私の手をとって強く握手して帰っていった。

でも愛情深くて格好いいあの人は、私が居なくなったらすぐ年上のお姉さんに強引に押し切られて、結婚してしまいました。

その少し前に電話がきた。

「いつ、戻ってきてくれるんだよ・・・。俺、お前じゃなきゃダメになってくんだよ・・・。このままだと結婚しちゃうんだよ」

5年ずっと一緒だったあの人の名前を、辛い時呼んで一人で泣いた。
あの人の会社のビルを遠くから見つめて、窓の明かりを見て泣いた。

今なら私、あの人がどんなに私を大事にしてくれたか分かるんだ。
どういうところが素敵だったかも分かるようになれたんだ。
もっと大事にしてあげたかった。
そういう自分になれたことを、いつか偶然、出会って、笑って伝えられたら、
なんて。

最初の彼とは5年間付き合いました。

生まれて初めて、私を甘えさせてくれた人でした。

性格もルックスも突出して良かったので、

30歳まで独身でいるなんて今考えると無理な話でした。

2002年3月18日(月)

夜中の1時ごろ、近所の商店街の歩道の隅に、男の子が体を丸めて倒れてた。

しゃがんで覗き込むと、寝ているみたいだった。
高校生くらいかな。なんだか知り合いの子に似ていた。
「大丈夫?」と声をかけても起きない。

大群のバイクがものすごい音を立てて目の前の国道を通り過ぎて行く。
振動がお腹にずーんと響いてくる。両手で自分を抱きしめて耐えた。

男の子の肩を揺すってみた。「風邪ひくよ」
そしたら目を覚まして「どなた?」とボンヤリ訊かれた。

「飲みすぎちゃったの?風邪ひくよ。大丈夫?」

「たぶん・・・」

おもむろに体を起こして、ビニール袋を広げて吐きはじめた。

2002年3月19日(火)

今日は会社を休んだ。

なんだか愚痴の聞きすぎと残業続きで疲れちゃいました。
ここらでちょっと小休止。
といっても今週はあさっても祝日だから一日おきに休むことになるな・・・

血液製剤フィブリノゲンにC型肝炎ウイルス発見とのニュース。
この薬の名前は職場の書類でよく目にする。
厚生省の対応の甘さが問題視されてる報道だけど、私の職場は、厚生省からの厳しい審査にてんてこまい。
年々審査が厳しくなってきて、こっちの対応が追いつかない感じ。
まあこういうのは厳しくしてもらわないとすごく困るんだけど。
病院で処方された薬で病気になるなんて冗談じゃないよ~。

2002年3月20日(水)

とっても春になってきた気がする。
風は体温に近くて優しい。

白っぽい色を身につけたいな。

2002年3月23日(土)

木曜日にA.I.のビデオを見た。
落ち込んでしまった。まだひきずってる。

母親を思い出させるものは、不安と寂しさも思い出させる。

私はまだ凄く凄く欲しい、だけど叶わないことを悟って、辛いからもうそんなこと忘れたい。
あの人は私にくれない、私の欲しいもの。
だけどあの人もそれを知らない、誰にも貰ったことが無いんだもの。
ずっとずっと、娘の私に求めているんだもの。
私は必死にあげようとしてきた、でももうそんなのは嫌なんだ。
私が、それを、あなたから欲しいの。
なのにどうして私が求められて我慢して与えなくちゃならないの。
私じゃあなくて、自分の親か、自分の選んだ相手に求めてよ。
お姉ちゃんのことはちゃんと親らしく守って、私にばかり弱さ見せて酷いじゃない。
いつもいつも終わってから、(あなたは一人でもちゃんとやると信じてたから)?
私は一人でちゃんとなんてやれてなかったよ。
同じ家の中にいて、私だけ別の世界に墜ちていた。
なぜ、何があっても本気で驚かないの?
心配してるって言いながらどうして何も知ろうとしないの?
私は強いから心配しなくても平気なの?
自分が頼れるように強くあって欲しいから心配したくないの?
親なのに、私の上に立ってくれないの?
ぼろぼろなのに助けて貰えないから、どうなっても一人でやるしかなかっただけなの。先生。

「そんなこと私に言わないでお父さんに言いなよ、自分で選んで結婚したんでしょ」

「お父さんには・・・こんなこと言えないもの」

だけどお正月にはちゃんと会いに行って、たまに電話を貰ってそれなりに話をして、家族の行事があればちゃんと行く。
それが母を安心させるためなのか、私がまだ何かを期待しているからなのか、分からない。

2002年3月25日(月)

何か強くて大きいものに包まれてしまいたい。

強くなりたいと思ってやってきたけど、やっぱりこれは変わらないのかな。

今までで一度だけ体験した、愛情で全てを包まれていた時の例えようのない安らぎ。
その感覚はもう忘れてしまった。
なのに、それを求める気持は強く残っている。

次にそれを見つけてしまったら爆発しそうだ。

「愛情で全てを包んでくれた」人は、最初の彼氏です。

2002年3月26日(火)

隣の席の社員は、マネーの虎と虎の門と虎れば?という番組が凄く楽しみらしい。
私はどれも見たことがないので字が分からないけど。
井筒監督の映画批評がとてもお気に入りの様子。
面白い面白いと力説し、ついでにさとうえりこがバカだと言っていた。

仕事でひとつ区切りがついたので、そういう雑談を振る余裕が出たようだ。
相手を見ない人なので、あまり他人から雑談の相手にされない私にも好き勝手に話し掛ける。
すごく楽しそうである。
部長とのケンカすら今日からまるで漫才のようだ。
ふと思った。彼の言葉遣いはひょっとして狙ってるのかも。
変わり者だから天然だと思って、笑いをこらえることも多かったんだけど・・・。

とにかく昨日まではもう強迫観念の塊で嘆きまくっていて、さすがに聞いてるこっちもきつくなってきてたのでホッとした。
ほんとよかった、ひとまず何とかなって。

2002年3月27日(水)

本当の気持ちばかりを知ろうと行動に移すのは、止めたほうがいい場合もあるのかも知れない。
なんとなく推し量るだけで止めておいたほうが、いい時もあるのかも知れない。

自分以外の人のことには。
いや、自分にとっても時には。

他人の行動で理解できないことがあった時、理由が知りたくて「どうして?」と、納得するまで訊いてしまう癖。
私の勝手で相手の真相を強引に解明しようとすることは、とても辛いことを浮き彫りにするか、知ったところで結局あまり意味のないことなんだろう。
そうやって、人の心に土足で入ってしまうんだろう。

人はみんな、私も、自分のことなんて、きっとよく分からないんだから。
話したくなるまで待つほうが、いい時もあるんだろう。

2002年3月29日(金)

一人でたくさん服を着替え続けた。
気付いたらとても疲れた。
大勢の人に会うのが不安になってきた。

例の人に虎の門をぜひ見てくれと言われたので、何となく遅くまで起きていた。
「どこの局なんですか?」って訊いた時にテレ朝って言ってたけど、テレ朝が何チャンネルなのか分からないのだった。

フジとNHKとテレビ東京以外の局はチャンネルを覚えてない。
10はテレビ東京の次に見ない。4と6はよく見る。
テレビ朝日とはこの4、6、10のどれかだということは分かる。
しばらくそれらしき時間帯にチャンネル替えてみたけど、結局井筒監督や蛭子さんを見つけられないまま寝ることにする。

「テレ朝って何チャンネルですか?」って聞くのは、さすがに恥ずかしかったんだろう。

2002年4月1日(月)

私はバカだ。
頭の良し悪しのことではない。
心の教養がない、っていえば近いだろうか。

バカならバカなりに、自分で納得できるように、せめて大切に一生懸命やっていきたいと思う。
でも気が抜けすぎて、必要なとこまで気合が入らなくなってる。
このままじゃ胸を張れなくて、ますます自信を無くしてしまうじゃあないか。
バカなのはもう仕方ないと思う。
でも、「自分自身が納得できるように」とすら考えないとしたら、私みたいなのはどんどんだめになってしまうな。

おととい先生が突然、本を紹介してくれた。

「あなたが自分で問題だ、治したい、と思っているなら、この本を一番薦めます。この本くらいだと思います、こういうことちゃんと書いてるのは。かなり難しいんだけどね、それに読んでて辛いかもだけど、もう一度向き合って見る気があるなら、これがいいです」

置いてある店を教えてくれた。
そうか・・・と、久しぶりにそういうのを読んでみる気になった。

私、すこし、自分のことをまた勉強しよう。
忘れる方向でしばらくやってきたけれど、私はしばしば自分からすすんで自分を傷つける。
とんでもない状況になってゆくのを分かっていてなぜか止めない。
それを問題視していない自分に突然気付いた時、とても怖くなった。
気付けて、よかった。

悲惨な自傷を頻繁にしていることを、

長らく主治医に打ち明けることを思いつかなかったんです。

普段は記憶から消えていたので。

やっとある日、私はこんなことをしている、

と主治医に相談できました。

2002年4月2日(火)

少しだけ仕事がゆるい時期。すぐ忙しくなるけれど。
例の社員が、たくさんたくさん話をしてくれる。
話してあげてるつもりはないんだろうけど。

各国の会社の運営の仕方の特徴とか、企業を運営する上でこれから必要になってくるソフトとか、昔はこうだったのに今はこんなになってきてるよとか、本を出してきたりホームページを開いて見せてくれたりしながら、世の中の動きをグローバルな視点でどんどん説明してくれる。
分からないと言えば、言い方を替えていくらでも話してくれる。

なぜこんな忙しい中、私などに話すか不思議であるが、そういう話をするのが好きなんだろうな。
それと相当疲れてるから、彼流の現実逃避なんだろう。
顔は嬉しそうだけど声に力がないもん。

普通、議論できるわけでもないこんな小娘に、好きこのんで長々とあんな話しない。

えーそうなんですか?じゃあこうなんですか?
それって何のことなんですか?
大変なんですね。

私の言うのは大抵これくらい。

彼の話を聞いているのは面白いし、ある意味とっても夢があってわくわくしてしまう。

2002年4月3日(水)

あまり眠れなかった。
会社で起きてるの、きっつい。

ちょっと休憩とって一眠りしたくても、トイレに行くくらいの時間しか休憩はとれない。
少し気分が悪いのでと告げればオフィスを離れられるかな。
派遣社員なのでその辺りの判断が難しい。
通院していることや、不眠その他の症状があると、派遣会社に相談してみるのも考えたけど、でもこの先仕事を貰えなくなってしまったらどうしよう。

しばらくは今の所で働くつもりだから、もっと社内の人たちにそれとなく知っておいて貰おうかなぁ。
今は社員で知っている人は一人だけ。あと派遣の仲間が一人。
話しても、当然だが本当のところは理解されない。
だけど知っておいて貰うだけでかなり楽である。

4月から部内の配置換えがあって、若い女子社員のすぐ隣の席でPC作業をする機会が増えてきた。

隣が気になって緊張して、安心して作業ができないのである。
話し掛けてくれるしお菓子もくれたりして、気さくでおまけに綺麗な子だ。
とっても嬉しいし笑顔を精一杯向けるのだが、距離は70cmくらい離れているだろうか、体が近すぎていたたまれなく、非常に苦しい。

これは、やっぱり軽い感じで何かしら言っておいた方が、何も言わないよりは誤解されずに済むかもしれない。
緊張のあまり黙って急いで作業を済ませ、そそくさと去る今の態度では、空気を悪くする可能性大。

あまり喋らない私となんとか仲良くしてくれようとして、せっかく話しかけてくれてるのに。
うーんなんとかしよう。

2002年4月4日(木)

今週の頭からずっと睡眠のリズムが崩れまくり。

月曜はなんとか行けたが火曜日は20分遅刻して注意された。
そして昨日は眠れずデスクで何度も意識を失ってしまうし、今日は今日で睡眠不足を解消せねばと
睡眠薬を多めにして早めに寝たら、朝起きれなくて午前半休!

なんかさすがに仕事上やばいと思い、派遣元と、同じプロジェクトの社員と部長に正直に話した。

睡眠薬を使っていること、不安定になりやすくそれも薬で調節していること、
これからも突然具合が悪くなったり、早退や遅刻の可能性がないとは言えないこと。

派遣元のスタッフォロー担当に相談したら、やはり突然休むというのはなるべく減らすことと、あとは先方の受け取り方次第ですね・・・、営業の方にもその旨を伝えてはおきます、また何か心配なことあればいつでも連絡してくださいね、
ということだった。

例の社員の反応は、

「これからは(誰か特定の人が居なくちゃ困る)という状況は、仕事の流れから言ってももう無い、もしくは無くすつもりでいるし、今までの働き方で問題ない、まあ無理しないでくださいな」

部長の反応は、

「俺だって朝に歯医者行ってから会社来たりするし、病院行きたい時とかも○○(例の社員)に告げとけば抜け出していいよ。もう仕事もある程度まとめて言われて放っておかれてるんやろ?鬱って、薬で動く元気が出ると自殺しちゃう人も居るみたいやんか、ウチの薬、飲んでみてどうやった?ワッハッハ」

・・・という感じだった・・・。

なんか少し取り越し苦労だったような。

書いてて思い出した。前にゲーム会社に居た時も、私がサポートについてた社員が

「こんなに一生懸命やってくれる人、いないよ~」

と言っていたな・・・まだ真面目すぎなのかも・・・。
なんて自分で思ってみたり。

2002年4月7日(日)

不安なことが多すぎる。
感情がいっぱいあり過ぎて、うまく処理していける自信がない。
身の回りの色々なことが、怖いんだ。

目をそらさずに、守りすぎずに、受け止めて生きていきたいけれど。

閉じこもってしまうのは簡単なことなんだ。
でも私には、その選択肢はもう無いだろうと思う。

2002年4月10日(水)

眠れない。

浅い夢の中でテレビが大音響で鳴りっぱなし。
ロフトを降り焦ってリモコンを探す。

抱えきれないものはいつでも突然やってくる。

押し潰されそうになったのなら、そっと距離をとるしなやかさを。潔さを。

2002年4月10日(水)

役にたつと思われること。
共感すること。
お金を稼ぐこと。
信頼されること。
優しい人と思われること。
強い人と思われること。
弱い人と思われること。
くだらない人と思われること。
綺麗な人だと思われること。
一人だということ。
一人じゃないということ。
甘えること。
苦しみ。
痛み。
潔癖。
怠惰。
堕落。
恐怖。
自戒。
博愛。
罪悪。
自慰。
望み。
目を見れずに顎を見ること。
崩れる前に自分を助けること。
今どこにいるの。
何が欲しい。
境界線はどこ。

2002年4月12日(金)

穴を埋めようとしているうちは、永遠に埋め尽くすことはできないんだろう。
苦しいのを誤魔化して笑っている場合じゃない。

2002年4月14日(日)

土日、家族旅行に参加してきた。
91歳の祖母をつれて行くというので、行かなきゃと思った。

母親と同部屋になり、少しだけどそれなりに会話する。
すごく辛い助けて、と口にする場面を想像する。
でも言ってもどうにもならないので世間話をしていられる。

足元のおぼつかない祖母の傍についていたら、私の肩に手を置いて、
「もう、あなたも早くいい人と結婚しなさいな」と言う。

「うん、いい人がいたらね」と大きな声を出す。
祖母はもう耳が殆ど聞こえない。

姪を抱っこしたまま温泉に入る。
私の胸にしがみついて怯えて声を上げる。
ぬるい場所を選んでゆっくり浸かる。
ほーら大丈夫でしょう、と言って背中をぽんぽんと叩く。
裸んぼの小さな赤ちゃん。
お腹をくっつけていると安堵に似た気持ちが沸く。
まるっこい手足。上気したほっぺた。
不思議そうに私をじっと見る真っ黒なひとみ。
薄茶色の細くてふわふわの髪の毛。

ドライブインでお土産を買うという。
姉夫婦にくっついてぼーっと店の中を歩いている。
ベビーカーをゆっくりと押しながら進む。

目に映るものは全部、色がない。
どうして、こんなところにいるんだろう。
あしたからまた働いて、食べて、・・・。
大きな刃物で自分の中心を一突きにする場面を空想する。

ああ一人になりたいのかも、と急に思いつく。
姉に「ちょっと辛いから、車に戻ってるね」と言ってキーを貰う。
車の中で、薬を飲んで、じっと時間が過ぎるのを待つ。

2002年4月16日(火)

動かない手足と。
眠れない頭と。

怖くて外に出たくない。
誰か助けてください。
考えないようにしてドアを開ける。
行けばなんとかなるはず、と言い聞かせる。
電車に乗れば、景色が勝手に流れていく。
足を交互に出せば、いつかは会社に着く。

PCの前に座って、額の汗を拭いた。
しばらく動けないでいた。

「なんか・・・本当に大丈夫なの?」とふいに訊かれて、

「すみません。最近調子が悪くて。ずっとは続かないと思うんですが」

と慌てて答えた。

ずっと続いたら、わたしはどうするつもりなのか。

指示が理解できなくて混乱する。
分かったと思っても
PCに向かった途端に見えなくなってしまう。
「すみません、もう一度言って頂けますか?」と訊く。
投げやりになったら終わりだ。

誰か止めて。助けて。怖い。ぜんぶ、無理だ。

2002年4月17日(水)

今日もシャワー浴びれなかった。
最近化粧をまったくしてない。
髪の毛もボサボサだ。
服も適当。
鞄の色が合ってないけど替える暇ない。
眉毛も手入れしてない。
歯医者に行って歯石とりたい。
整形外科行きたい。
先週ふらついてぶつけた足の小指がまだかなり痛む。
骨がどうにかなってるのかも。
もっとちゃんと、毎日、したい。
できる日がまた、きますように。

2002年4月18日(木)

苦しいから自分を騙して生きる。
騙していることに気付いた時、その気付きがまた新たに自分を騙す。
一番辛い真実には、なかなか辿り着けない。

手に入りはしないものを求めて、模索し続ける。

それは、もともと無いものなんだと。
無いものなんだと、心の底から受け止めることは、今更、できるのだろうか。

多分わたしは、捕われたままでも、時々訳もなく世界が色褪せて見え死を思い描いたりしながら、それでも生きてゆけるだろうと思う。
ぐらぐらしながら、今までやってきたみたいに。

2002年4月21日(日)

好きな人が、できました。

宮崎アニメ「耳をすませば」のキャッチコピーに、こういう文句があった。

好きな男の子の夢を追い続ける姿を見て、自分も何か成し遂げたくて、少しでも追いつきたくて、ひとり一生懸命ひとつの小説を書き上げる中学生の女の子の話。
だったような。

少年のおじいさん(?)が小説を読んで、
「とてもよく書けているよ」と言った瞬間、
少女はわーっと号泣する。
見ている私も同時に声を上げて泣いていました。

新しく彼氏が出来ました。

日記では彼のことをWちゃん、

マネージャーなどと表記しています。

2002年4月22日(月)

足の小指は半ば骨折状態だった。
三ヶ月くらいで治るだろうとのこと。
しばらく踊りには行けないな。

会社の後、歯医者にも行ってきた。
歯はとても大事。
歯ブラシはいつも持ち歩いていて、外でもだいたい歯磨きは欠かさない。
昔はよく、歯を一本ずつ取り外して磨けたらどんなにいいだろう、と思っていた。

初めて行った近所の歯医者はアタリ。
子供のように歯磨きの指導を受ける。
やる前は面倒くさいなと思っていたけど、太目の若い女の子のゆったりした指導に従って鏡を見ながら歯をのんびり磨いていたら、とっても癒された。

小さなドリルのようなもので歯石を削りとって貰う。
ウィーン、ガリガリ、と金属の振動が歯に響く。

作業の腕を確認できたら、もう安心。
歯医者は好き。
口をあけてだらっと身を委ねる。
時折ちょっと痛みが走るのが気持ちいい。

「我慢できない痛みがあったら左手をあげてください」

口をあけたまま頷く。
絶対に手を上げたりなんかしない。
お腹の上で両手を組み合わせて目を閉じている。

今日は、会社の後辛くて涙が流れてたけど、歯医者の帰りにはもう出なくなっていた。

2002年4月23日(火)

昨日もそうだったけど、集中力なさすぎ。

やらなきゃいけないことは分かってるのに、資料を読んでも文字がまったく頭にはいってこない。
自分で理解して書いたはずのメモも繋がらない。
仕事の手順を組み立てて考えられない。

「あれ進めておいて」という状態で放って置かれると、ひとりで何も進められなくて座ったままになってしまう。
単発で指示を受ければ、その時だけ覚えて、ゆっくりでもなんとか出来るんだけど・・・。
周りが忙しくしてるのに自分だけ仕事にならず、焦ってくる。
簡単な仕事でいいからさせて欲しい。思い余って、
「今、調子が悪くて、理解力と記憶力が極端に低下してます。単発で指示いただく仕事ならこなせると思います」
というような内容を文章にして社員に渡した。
口でうまく説明できないと思ったのだ。

そしたら、忙しそうで話し掛けるのも憚られた社員が、一変してとても気を遣っていろいろ面倒を見てくれた。

私自身に私の仕事を整理させるための資料を作らせたり、「こうやればそういう状態でも出来るんじゃない?」と提案してくれたり、「どう?これだとわかる?」と細かく何度も説明してくれたり。
かえって物凄く時間をとらせてしまった。

情けない。
昼に久しぶりに思い出して「こんな時こそ」とリタリンを飲んだ。
少しはマシになったみたいだったけど、やっぱり仕事があんまり理解できないままだった。
帰り際、「いろいろ手間をおかけして済みませんでした」と頭を下げたら、「本当に大丈夫なのかなぁ~。明日これる?」と言われた。

来ます、主治医に相談するなりしてなるべく早く調子が戻るようにします、と告げて帰った。

これ書いてて改めて思う。
なんて恵まれた環境なんだろう・・・。

2002年4月25日(木)

昨日は会社を休んで夕方まで爆睡した。

今日は朝も昼もリタリンとソラナックスを飲んで働いた。
久々にたくさん寝たせいか、調子はなかなか良し。

どんな出来事も、感情も、形を変え流れてゆく。
ふと気付いて立ち止まり見渡せばいつも、世はすべてこともなし。
そして私にはあたたかい手が確かにある。

2002年5月1日(水)

こうやって、わりと普通に生きてゆけるんじゃないかと、ふんわりとした気分になって、人も風もすべてがゆるやかに感じられて、あんなにも激しい不安が遠のいている日々も訪れるんだ。

時々この世界の空気に触れていることが恐ろしく、すべてが鋭く尖って突き刺さるようで、耳を塞いだり両腕を抱きしめたりしながら歩き、普通に受け応えし笑顔を作りながら、その一方で魂は冷たい灰色の霞にだんだんと包まれてゆき、消滅して楽になることを思っている私でも。

2002年5月6日(月)

なんだかどんどんバカになってく気がする。

2002年5月7日(火)

GW明け。
おはようございます、と声に出すのは久しぶり。

眠すぎて思考力なし。

プレゼンのスライドや資料を作る仕事が好き。
レイアウトを考えたり色をつけたり。
眠くてもなんでも休まずにいくらでも出来る。
書類の整理や管理をするのはどうやら嫌いらしい。
資料を眺めてみるがどうしても関係ないことばかり思い浮かび、何時の間にか眠っている。
結局、嫌いな仕事をやる気が起きないんだよな。
どうしよ。

夕方から手足が震え出す。
「ああ震えてる、震えてる・・・」と思いながら、残り時間が少ないので薬は飲まず定時まで見送る。
時間になったらさっさと帰る。

2002年5月9日(木)

また休暇をとって一日中眠ってしまった。

昨日は仕事の今後の流れの説明を受けている時、気合を入れてたのだが目が一瞬イッてしまったらしく
(意識が遠のいた)、

「・・・なーんか調子悪そうなんだけど、本当に平気?」

と首を傾げて訊かれた。

慌てて姿勢を正し「すみません、大丈夫です」と言ったが、はっきり言って大丈夫でない。

あーこのままじゃ仕事がやばい。どうしたらいいんだろう!
考えたくなかったけど、やっぱり私は一人で居ないとダメになってしまうんだろうか。
先生。

2002年5月13日(月)

私はどうしても薬を飲むのが嫌いだ。

抗鬱剤と睡眠薬以外はよっぽどパニックにならない限り、飲まないで乗り切ろうとしてしまう。
よくよく考えたら、昼間は処方された薬を殆ど飲んでないのだった。

これで先生に「調子悪いです」と言うのはおかしい。

仕事の書類が理解できないのも眠気がひどいのも、どうやら不安からくる現実逃避が要因らしい。

やはり先生に「ちゃんと飲んでください」と言われ、今日からきちんと食後の薬を服用することにした。

朝、始業の一時間前にビルに到着。
ロビーで座っていたら、何時の間にかひじかけに額を押し付けて爆睡していた。
目覚めたら始業時間を5分過ぎていた!
おでこに思い切り跡をつけたまま慌てて出勤。

今日は眠らずに働けた。

2002年5月14日(火)

ロヒプノール1だけで寝たら、4時に覚醒。

午前中、トイレで15分ほど眠ってしまって席に戻ったら、タイミングが非常に悪かったようで
「あとどのくらいで出来そうなの」
「全部把握しておいて貰わないと困るんだよ」
「ずっと居てくれる訳じゃないんだからちゃんと段階踏んでやってよね」
「何度も同じ事言わせないでよ(勝手に言ってるのに)」
「今日中にここまでやって欲しいんだよ(無理!)」
などと冷たい態度で指示を受けながら困り眉で必死に作業する。

他の部の同年代の男性社員が、
「どうしたの○○、機嫌わるいじゃーん」と言って通り過ぎる。

PC作業でどこをいじっても出来ないことがあり、本で調べても載っていなくて先へ進めない。
凄く急かすわりには質問してもそっけない返事だったので、部屋を出て助けて貰えそうな人を探しに皆のところへ行く。

こんな時に限ってOAキーパーソンの二人が不在。
社員の主任格の女性に恐る恐る助けを求めてみる。
部の女性社員が交代で3人見にきてくれて、解決した。

最初に訊いた女性にも「出来ました」とお礼を言いに行ったら、

「そんなわざわざ、いいよ~。○○さん、機嫌悪いの??大変だよね~。分からないことあったら私が分からなくても人を集めるからいつでも言ってねー」

と温かい言葉を耳打ちして貰う。
多分わたしはずっと困り眉でいたんだと思う。

これを書いてる今もなんか眉間に力が入ったまま戻らない。
薬のお陰か落ち込んではいないんだけど、明日は席を離れる時は注意しよう。

2002年5月15日(水)

ロヒプノール1にレスリン追加で眠る。
朝と昼にソラナックスとリタリン半錠。
夜はソラナックスとパキシル30。

今日はけっこう調子よく働けた。
就業時間中は寝なくて済んだし、説明もちゃんと理解できる。

リタリンのせいで仕事が終わる頃に少し疲れがくるが、まあ仕事できないよりましだ。
やっぱり薬は必要なのかなぁ。

2002年5月16日(木)

予定しなかった仕事が厚生省から送られてきて、綿密に立てていたスケジュールが狂う。
隣の社員がパニックぎみ。

説明を受けるが、はしょりすぎで何をして欲しいのかよく分からない。
伝わってくるのは仕事に対する焦りのみ・・・。
「どうして欲しいのか分からないです」
と言ったら、

「どうして欲しいとかじゃないんだよ~、こっちが教えて欲しいくらいだよ~」

と、頭を抱えながらますます訳のわからない返事をされる。

あなたが分からないものを私にどうしろって言うのだ。
とりあえず手をつけて悩み悩み自己流で資料を作ってみる。
役に立つんだかなんだか分からない仕事をするのはとても疲れる。

だけど隣で一緒に悩んでる姿を見せるのも彼の精神安定に繋がるのだ。

夕方気付いたがまったく休憩してない。
でもまた一人にすると気に障るんだろうな。
疲れたので休憩してもいいですか?と訊こうかなとふと思う。
でも彼は休憩をまったくとらない人なので言いにくいな。
PCは1時間やったら10分とか休憩しないと体に悪いんだぞ。
教えてあげよか。

午後のリタリンが切れてきて、もうやれないと思うところまでやってから、
「昼の薬が切れて疲れてきたので(こんな事も言ってしまう)、途中ですが一度状況を見て貰えますか。それを見て改めて方針の指示を頂けますか?」

と、作成した資料を打ち出してしおらしく渡す。

「うんわかった。明日までに見ておくから。でも明日はその前にこっち(別の仕事)先にやって欲しいんだよね。・・・明日、休んじゃうってこと?大丈夫?来れる?」

はい、来るには来ます。
ここんとこ一時間前にはビルに着いてるんです。
睡眠薬の調節が難しくて、どうしても一人だと朝眠ってしまうので、人に起こして貰って一緒に出るようにしてるんです。だから大丈夫だと思います。

私は睡眠薬がないと夜はまず眠れない。
薬を飲んでも飲まなくても朝はとってもきつい。
しかも4月から調子が悪くなりますます眠れなくなった。
会社では情報を拒絶する防衛本能が働くらしくて、文章や説明がどうしても頭に入らないし記憶も辿れず、眠気がひどくてお話にならない。

処方通りに抗不安薬とリタリンをちゃんと飲むようにしたら、あまり眠れてなくても文章が理解できるし、意識を失わないようになったから、先生の言葉も頷ける。

「引き篭もりと同じ状態で、仕事行ってるんだよね」

この頃、夜は彼氏が私のアパートに泊まって、

朝に自力で起きられない私をどうにか起こして支度させ、

一緒に出勤してくれていました。

2002年5月18日(土)

麻雀をした。
私は普段ゲームらしいゲームをしない。
麻雀はまだ全然わからない。

今回の麻雀参加メンバーは出来る人ばかりだった。
最初は何とも感じなかったが、負けてばかりいるとなんだかとても悔しくなってくる。

でも一番腹が立ったのは、場所を提供して下さった夫妻が私に親切に指導してくれているというのに、「敵に教授してどうする。負けて強くなれ」と無情にも私に言い放ち、今までに見たことも無い真剣さで目を輝かせて勝負に挑み、一人勝ちして大喜びしている彼の姿を目の当たりにした時だ。

彼の頭は、今まさにどんな時よりも回転しているに違いないと感じた。

2002年5月20日(月)

私の部屋の家賃は七万円だ。
時給1600円でフルタイム派遣社員をして生活している。

年金を払っていないし、なるべくお弁当を用意して出勤するようにしている。
外食も極力しない。
洋服も滅多に買わなくなった。
食材や日用品を買う時はいくつか店をまわってからにする。
入浴したお湯で髪を洗い、洗濯も済ませる。

だがまとまった貯金が出来るほど生活に余裕はない。

一人暮らしになって、今の仕事に就いてからの収支を振り返って見ると、月平均4万円黒字のペース。
今は2万黒字くらいになってるけど。

去年の7月頃、普通預金が4万円代まで落ちた時に比べたら、今は少し余裕が出来て、家計簿を入力しなくなった。

あの頃はきつかったなぁ。
鬱は凄まじかった。
先生には仕事はしない方がいいと言われた。
だけど親に経済的に援助を求めることは出来なかった。
私は帰れなかった。
働くしかなかった。
食べる気力がなく、体重も36キロまで落ちた。
お金は外では一切使わなかった。
もう死ぬ思いで今の仕事に就いて、這うようにただ通った。
仕事が終わっても帰る力がなく、ずっとロビーで放心していた。
やっとのことで帰宅しても、倒れるだけだった。

2002年5月21日(火)

今年の母の日は、姉夫婦と両親と私でパーティーをやろう、と姉に言われた。

姉が父親に還暦のプレゼントを買うから、私が母親に退職祝と母の日のプレゼントを担当してくれ、と命じられた。

先月の家族旅行に行ったら物凄く不安定になったので、調子を崩して会社に行けなくなるのが恐ろしくて、夕方からのパーティーには参加できなかった。

昼にカーネーションとかすみ草の花束を買い、とても綺麗にラッピングして貰った。
郵送ができないらしく、意を決して実家に向かった。
気持がざわざわして胃が痛かった。

花を抱いて、電車に乗った。
じっと花を見下ろしながら、なんてことはない、すぐ帰れば大丈夫、と自分に言い聞かせる。

実家に帰って「おめでとう、お疲れ様。すごく綺麗でしょ」
と花束を母親に差し出す。
とても喜んでくれた。

「顔色が悪いわよ・・・。食事は一緒にできないの?」と訊かれ、これから彼のところへ行くのと言った。
朝、起こしてくれるの。一緒に出勤してるの。
毎日来てくれるの。
お母さんに宜しくって。

「あらまあ・・・あまりご迷惑かけるんじゃないのよ。お母さんには分からないこと、して下さってるのね。こちらこそ宜しく伝えておいて」

帰るまでずっと笑顔でいることが出来た。

だけど私はまだ、なぜ母親が「あなたが心配で心配で・・・」と、電話ですがる様な声で繰り返すだけで
どう見てもフラフラだった私に経済的援助を申し出なかったのか、(お金はこっちも貰いたくないが)仕事的に専門分野なのにどういう病気か少しも知ろうとしなかったのか、母親が寝てから食べ物を掴んで床にぶちまけて泣いていた私を偶然見た時「そんなことするの・・・?あなた」ととても嫌な物を見る目で見たのか、先生の「一緒にカウンセリングを受けて、娘さんの回復を」という言葉に「お母さんのことを病気扱いした」と拒絶したのか、分かるけれど、分かりたくない。

私のことを親の目で心底大切な娘と思っているとは思えないから。

母親は小さい頃から私にとても頼るが、私の中には踏み込んできてくれない。
(頭が良くて、優しくて、しっかりしてる)私が苦しい、という現実は受け入れたくないのだと思う。

一度でいいから、捨て身で心配されてみたかった。

2002年5月22日(水)

どちらに行かれるんですか?
○○線に乗るんです・・・、と顔を向けて優しい笑顔。
杖で歩くのと手をとるのとどっちがいいですか?
じゃあすみません、掴まらせて頂いていいですか?
とても澄んだ綺麗な声、ゆったりした物腰。
不安だろうに、マリア様みたい。

職場で背筋を伸ばしてスタスタ歩く。
仕事をただただ地道に進める。
顔には少し厳しさが戻った感じ。
ふんわりとした気分でなくなったのがなんか寂しい。

しっかりすると、すぐ判断を任せられて放っておかれる。
手を加えた個所と内容を明確にしつつ、厚生省に提出する(最終的には一般公開される)文書に、じっくりと注意深く訂正入力をしてゆく。
スケジュールは決まっているから、限られた時間内でできるだけ一連の文書を通して統一性を持たせ、整えるのが今の私の仕事。

会社と当局側でお互い一年のタイムクロックを持っている。
外国から「日本は認可が遅すぎる」と批判を浴びて、最近一年に縮まったのだ。
申請から承認される前にタイムクロックを使い果たしたら苦労が水の泡。
当局側は、新薬を認可しない方が楽である。
認可したら仕事が増えるから。
だからなるべくこちらに時間を使わせようとする。
「なんで今ごろ?」と思う疑義事項をぽつぽつと挙げてくる。
面目上こちらに仕事を渡している間は、こちらの持ち時間が減り、当局側の持ち時間は減らない。
その間に当局側の仕事を済ませるのだ。
だからこちらもなるべく急いで書類を仕上げて渡す。

そういった、感じ悪い駆け引きがあるらしい。

2002年5月25日(土)

今週もパーフェクト出勤達成。
やったー。

昼間寝たら、とても怖い夢を見た。
目覚めて、夢でよかった・・・と沈んだ心で思う。
今日は休みだから朝から薬を飲んでいないのだった。
起きて、抗不安薬を飲む。

昨日は仕事をし過ぎて本当に疲れた。
残業をして頑張ったが、「疲れてもう出来ません」と言って上がらせてもらった。
来週月曜日に、ある段階まで文書を揃えなくちゃならない。
金曜日に出来なかったぶん月曜日にまわるのだ、嫌だなぁ。
鞄を持って一瞬動きが止まった私に、「大丈夫?」と社員が言う。
「うーん、きついです」

黙ってたくさん働くからってのん気に任せすぎなんじゃ!
ちゃんと目を通して下さい、と言ってもチェックも甘い。
これで他部署に確認依頼出しちゃってミスを指摘されたら、「やったのは僕じゃないから」なんて言うつもりじゃないでしょうね。まさかね。

でも、言えば「難しいけどとにかくやってみます」と、それなりに出来るだけ頑張るからこそ、期限もきつく提案してくるんだよな。
「こうだからこうだと思います」って言うから、やり方も任せられちゃうんだよな。
ちょっと重くなってきたぞ。
来週は少し緩めて、疲れすぎないようにしよ。

母は、4月に仕事を引退した。
今は別の福祉関係の資格をとろうと家で勉強しているらしい。

「今年のあなたの誕生日は、うちでケーキと料理を用意して、お祝いしてあげるからね。お母さん家に居るから」

温かいような照れくさいような怖いような気持になった。

母は、私を保育園に入れた頃から働き通してきたので、平日に家に居るということは無かった。
会議や勉強会も多く、かなり夜遅く帰ることも多かった。
カギっ子の私は学童保育に通って小学校時代の放課後を過ごした。
運動会とか、授業参観とか、来なかったかもしれない。
覚えていない。

小学校低学年の頃か、夜遅く帰って来た母の横に立って、「今日ね、学校でね、○○がね、・・・」などと私が話していたら、いきなり「うるさい!」と新聞でひっぱたかれた。
私はとてもびっくりして、何が悪かったのか分からず、お風呂に入って泣いていた。

そしたら母親が私のところにきて、
「ごめんね、お母さん、疲れてたの。本当にごめんね」
と言った。

私はまだ、疲れているということも、疲れていると突然叩くということも、理解できなかった。
母が私に謝罪している、という状況にも戸惑っていた。
ただ、さらに涙が溢れた。

2002年5月27日(月)

本当に疲れ過ぎ。

昼休み以外に休憩が1分たりともとれない。
期限のある仕事でやり方も任されちゃうから、私しかできないようになってしまって、終わるまで帰らせて貰えない。

「・・・これ今日じゃなきゃダメですか?」
「だって明日の朝イチに持っていくんだもん!」

午後ぶっ通しで6時間は働き続けていた。
薬も切れてきたしもう燃料切れ。
でも帰ることは出来ないのね。

「・・・・・・すごく疲れたので休憩してからでもいいですか?」

部内の他の派遣社員の人と扱いが絶対違う!
(私だけが特定の社員の専属状態なのであまり比べられないが)
明日ドタ休みしてやる~!
私を疲れさせて休まれるとどれだけ不便か、またここらで思い出させてやる~!
まあ休まないけど。

でもこんな状態が続くならいっそのこと時給あげて貰いたい。
実際もう少し収入に余裕が欲しいし。
部長か派遣会社に直訴しよう。

席を外してると機嫌悪くされるし、面倒見きれない。
一生懸命やれば横でずっとあおられまくり。
おまけに任される範囲が広くなるばかりで、負担が重過ぎる。

このままだと本当に続かない。

仕事終わって、体が動かない。

2002年5月28日(火)

朝、悩んだ挙句、本当に会社を休んだ。
チームの上司が誰も電話に出られない状態で、結局伝言で「疲れがとれないので休暇頂きたいんですが」とだけ告げた。
仕事が心配だけど、今日はダメだ~。
休んでも楽な気分で過ごせないのが切ない。

昨日は仕事の後とりあえず彼の会社までは何も考えずに辿り付き、全身の筋肉が硬直して魂の抜けた私は出されたコーヒーを黙ってすすり、放心したまま連れて帰って貰った。

硬直のなごりで体中が痛いし、ペースを自己管理できない自分に鬱々。

2002年5月29日(水)

昨日のドタ休みのことは何も言われなかった。

部長にこっそり確認したら、
「なんかおとといエライ遅くまで残ってたみたいやんか、○○も月曜に帰られるより火曜に休まれるほうがいいって思って残らせたみたいやで」
と言われた。

休まれるの覚悟の上だったのね。

だったら「これ仕上げたら最悪明日休んでもいいから」と最初から言ってくれ~。

月曜仕事終わってから火曜日一日、今後どうしたら良いかずっと悩みまくったじゃないか!

しかもここんとこ相変わらず威圧的な態度で指示をするので、腹が立つったらありゃしない。
私はいつでもサボったりしないし一生懸命なのに!

反感買われてると思われてるのか、無意味に焦らせるし高圧的なのだ。
ちゃんとやっても素直に喜んでくれないので、かえってやる気失ってくる。

あなたがどんな態度とろうと私はいつも一生懸命なのだから、そんなヘンな勘違いしてコントロールしようとしないでくれ!!!

あ~久しぶりにマジでむかつく。
本人の前で泣いてやりたい。
普段飲まないお酒を自らたくさん飲んでみた。
付き合ってくれた皆様、ありがとう。

2002年5月30日(木)

自分はいつも一生懸命なのに!なんて言うのって変。
一生懸命だとしても一日中悩んだとしても私の勝手だ。
人の態度に腹が立つだけじゃなく、勝手にやったことまで人のせいみたいに腹が立つなんて。
普段からそういう人を見るとすごく嫌悪感を持っていたのに。

やだな、おかしい。どうしちゃったんだろう。

昨日カラオケで大声を出してお酒をたくさん飲んだお陰か、怒りは湧かなくなっていた。

なんかへん。落ち着かない。
仕事の疲れとストレスかなぁ・・・
すごく眠い。 

2002年5月31日(金)

昨日も今日も、隣の社員はとても親切だった。
だけど私は朝から気分の落ち込みがひどくて、早退しようかどうしようか迷いながら仕事をしていた。

午後に、派遣会社の担当の人から契約更新の電話があった。
8月までの契約が確定とのことだった。
9月まで延長になるかもしれない、と言う。
え?と思ったが仕事中なのでそれ以上詳しく聞かなかった。

仕事が終わってから、部長に直接確認しようと思ったが席にいない。
隣の社員なら何か分かるかもと思って「今お時間よろしいですか?」と言って、私の契約更新のことで何か部長から聞いていないかと話をしてみた。

私が手伝っているプロジェクトの仕事の区切りが8月なのだ。
それは私も知っていた。
でもまさかそれで辞めさせられるなんて思っていなかったのだ。

隣の社員は部長にその件で何か聞いているかという質問には答えず、長々と仕事の段取りとか分かりきっていることを話すので、もう一度「・・・それはそうなんですけど、部長とは具体的にそういうお話はされてないんですね?」と言ったら「・・・そういうこと(辞めさせられること)も在り得ると思うよ、考えておいた方がいいんじゃない?」と言った。

「ここ辞めさせられるとキツイ?仕事ない?」と訊かれた。
「・・・パソコンが多少出来るので仕事はあると思いますけど・・・私ここ好きだったんです」と呆然と言った。

固まってしまった私に「納得いかない?きつい?」と訊く。
いけない、と思って「いえ、ただビックリしただけなんです。○○さん全然悪くないです。ありがとうございました、こんなことお話して済みませんでした」

その足で派遣会社へタイムシートを提出しに向かう。
ちょうど担当の人がいた。
私を見てすぐに「少しお話させて宜しいですか?」と席に案内する。
話を聞いて、やっぱり8月か9月に終わるのだということを確認した。

「○○様の勤務態度に問題があるというお話はいっさい伺っていません、私が引き継ぐ時に前任の○○もとてもよくやってくれるというお話しか伺っていないと申しておりました」

呆然と聞く。

「・・・わかりました。そうなりますと・・・私、仕事を切らせない状態なんです」

「一ヶ月あれば9月1日からのお仕事もいろいろ打ち合わせをされて選べると思います、これからもどうぞ宜しくお願い致します」

「こちらこそ宜しくお願い致します」

「お忙しいところお引止めして申し訳ありませんでした」

「いいえ、私も確認しておきたかったので」

頭を下げあって、私は帰る。
ヘンなことで謝るなぁ、引き止めて当然な話だ。
お忙しいも何もないよ。
やたらと低姿勢だし、新人さんだから緊張してるのかな。
表情のない私は怒っているように見えたのかも。

あーあ。気付かないうちに弱くなったなぁわたし。
慣れって怖いな。
何が起きても平気だと覚悟してやってきたはずなのに。
何でも起こり得るといつも思っていたはずなのに。

2002年6月2日(日)

もう疲れたの。
リタリン飲み続けながら働くのも疲れた。
ちゃんとお金稼ぐ為に飲むしかないんだけど、疲れが溜まっていく一方。

社会不安?鬱?神経症?AC?睡眠障害?アディクション?
何でもいい。
もう、疲れたの。

薬、やっぱり大嫌い。
本当は、眠れなくてもいい、飲みたくない。
鬱になってもいい、飲みたくない。
緊張しても不安になってもいい、飲みたくない。
私の感受性を全部、自然のまま、自由にさせて、喜びも悲しみも、感じるまま放っておきたい。

眠れないなら焦らず眠くなるまで気長に待っていたい。
鬱になったら焦らずじっとして過ぎ去るのを待っていたい。
体が震えるなら焦らずおさまるのを待っていたい。
食べられないなら自然に食べられるまで待っていたい。
明日の事を考えて、否応もなく態勢を整え続けるの、虚しい。
不安でたまらないなら・・・これは待つのは無理かもだけど。

とにかく出来るだけムリに軌道修正したくない。
限界まで、ぐらぐらしてるままで、もういい。

でもそれじゃあ会社毎日通えない。お金稼げない。

だけど薬で押さえつけて騙すばかりの毎日で、なんか何の為にわたしの心があるのか分からない。

一人の人間として、社会に合わせて当たり前?
我儘なんだろうか。

お金稼いでいくために、このままずっとぜんぶ殺さなくちゃいけないんだろうか。

リタリン:「合法覚せい剤」と呼ばれた、気分を高揚させる薬。

社会問題になり、現在はナルコレプシー以外には処方されないようです。

2002年6月4日(火)

派遣社員なんだから、いつ切られても何も不思議はないってこと、最近なぜか忘れてた。

さすがに一年もいると、周りの人が愛しくなって、仕事の事以外は殆ど話さない私でもとっても寂しくなる。

仕事するエネルギー温存を最優先させて、コミュニケーションは二の次にして頑張ってきたけど、こうなったら残された3ヶ月間、思い切り楽しんで皆と過ごそう。

昨日はグループの8人で飲み会があり、幹事が唯一の派遣社員である私の会費をすごく安くしてくれた。
「仕事より飲み会だ!」と思い、昼食時の薬を抜いて、飲み会に備えて夕方に薬を飲んだ。

ガンガン飲んで、思い切り喋って笑ってきた。
二次会がカラオケになり、思い切り歌ってきた。

「○○ちゃん面白いな~。部屋に篭ってないで、仕事もこっちに持ってきてやりなよ」

と、困るんだけど有難い事を言って貰った。

飲み会の次の日(今日)、隣の社員が出掛ける間際に

「ひとつ聞きたいことがあるんだけど・・・」と唐突に言った。

「はい」

「昨日言ったこと覚えてる?忘れてる?」

「覚えてますよ、全部」

「なんか心当たりない?」

「あー・・・ トイレにも行かせて貰えないっていう話ですか?」

「どうしてああいう話になっちゃうのかなぁって・・・。確かに言ったことあるよ、でも一回だけだし・・・。ああいうことああいう場所で言われると、周りからへんな目で見られるんだよ。僕だからまだ良かったかもしれないけど、相手の性格が悪かったら自分の首締めることになるよ」

「本当に済みません、言い過ぎました。冗談のつもりだったんです」

「それならいいんだけど・・・。僕さ、○○さんのこと本当に仕事めちゃくちゃ出来ると思ってるんだよ」

「えー?本当ですかぁ?」

それから私の体調の話になった。
もう神経症とか鬱とか薬とか、全部言っちゃってる。

「どうしてそんなふうになっちゃったかねぇ」

「さあ・・・育ちのせいですかねぇ」

「僕もさ、家庭環境めちゃくちゃだったんだよ。それもあって、ひねくれてるけどさ、そんな悪い人間じゃないんだよ」

「もちろん、そんなこと思ってません」

「これから心配だなぁ」

「何がですか?」

「そんなんで、この先、生きていけるのかなぁ・・・」

「ああ私のことですか。うーんどうなんでしょうねぇ・・・」

「まあもう行かなくちゃなんないから、またゆっくり話しましょうや。今度サルサ一緒に踊りにいきましょう。僕はぁ、ハイレベルだよー」

(彼は本当に「Shall we dance?」のエキストラとか、皇室アルバムとかにダンスで出てるんである)

言いながら背広を持って部屋を出てゆく。

「ええー!!本気ですか?・・・行ってらっしゃい」

飲み会で私、言い過ぎたのかしら。
なんか急にしんみりしたこと言うじゃないか。

それから仕事が殆ど手につかず、ボーっとしたまま定時を迎え、ワールドカップ初戦を見るために急いで帰った。

2002年6月5日(水)

今日は仕事をとても頑張った。

最近また食欲がないので安上がり。
でも眩暈が頻繁になってきたので心配。

夜、二時間ごとに目覚めていた。
朝起きて支度するのが冗談かと思うほどキツイ。
日に日に体が泥のようになってきてる。
その辛さといったらもはや拷問に近い。

一人だったら絶対に会社休んでる。
自力で起き上がることも出来ない私を、支度させて電車に乗って別れるまでケアしてくれて、敏腕マネージャーのWちゃん、本当にいつもありがとう。

2002年6月6日(木)

今朝は普段よりもきつくなかったのに、一日中泣きたかった。

これを寂しいというのか、悲しいというのか、分からない。

まわりの人は怖くないし、全然嫌いではないのだが関わるのが嫌だ。
表情も声も明るくしないといけないから。
今日はそれが出来ない日だった。

言葉を交わしても気持がこもってないからぎこちないし、変だなと思われてるのを感じるが、傷つけるのでなければもうどうでもよい。
ただ、表情の暗さを勘違いして不愉快になる人がいたら困るなぁ。

ただ、泣きたい。
ちゃんと働いてるけど、ずっと泣きたい。

こうなると定時が来るのも、休みの日が来るのも、楽しみにしてたTV番組も、全部いやになっちゃうのだ。

きっと、ただ、鬱なんだろう。

2002年6月9日(日)

金曜日、隣の席の社員に夕食に誘われて、イタリアンのコースをご馳走して貰った。

どういう家庭環境だったか堰を切ったように私に話すのを、表情を変えないようにただ普通に聞いていた。

世間話以上の反応を見せてはいけない気がした。

「僕はそういう訳でやっぱりシビアである意味冷たいかも知れない」
「冷たいとは思いませんでしたよ。ただ言い方がヘタだなーと思ってました」

そして私に

「それってどういう気持なの?」

「心から楽しいって思うことってないの?」

「充実感とか感じることないの?僕はそれが無いと仕事って出来ないと思うんだよ。例えば今日はあれをやり終えたじゃん、そういう時は達成感とか感じるの?」

などと色々と時間を置きながら一つ一つ質問する。
「うーん」と考えながらゆっくり正直に答えた。

ボーっとワインを飲んでいたら、黙ってこちらを見ているのに気がつき、
「なんですか?」と笑って訊いたら
「なに考えてるのかなぁと思ってさぁ」と言った。

「うーん、うーん・・・何て声をかけていいのか分からないんだよね」
「いえそんな別にいいですよー」

「来週の金曜日はちゃんとご馳走しますんで」
「・・・ちゃんとって何ですか?」
「もっと高級なところで」
「あはは。そんないいのに・・・」
「いやそう言わずに。多分じゃなくて絶対に空けておいてよ」

私は、断わりはしなかった。
悪い病気が、また出てきた。
自己嫌悪と胃の痛みと優越感と絶望感と、ごちゃまぜになって体いっぱいに渦巻いている。

あんな育ち方をしたら、ああなって無理も無い。
それはもう小さい頃から必然的に身についてしまって、大人になってから諭してもなかなか治らないだろう。
もっと安心して周りの人を信じるには、難しい。

帰ってからも、その事が頭から離れず、横になったまま一睡も出来なかった。

2002年6月10日(月)

隣の社員が、仕事の合間に鬱の説明を読みながら、私に精神的な病気のことを色々質問してくる。

たくさん答えた後、
「私、病名なんてどうでもいいんです」と言った。

「じゃあどうなりたいの?」

「・・・楽になりたいです」

ああ、空気に流されてついへんなこと言っちゃった。

どうなりたいのかなんて実はもう分からないんです。
私はただ生きているだけ。すみません。

マネージャーのWちゃん。
土曜日の夜、無性に悲しくなっていた私はとてもひどいことを口走った。
その私の顔を間近でじっと見て、
ただ「・・・疲れてるんだよ。もう寝よう」
と促して、うつ伏せの背中をマッサージしてくれた。
前日眠れなかった私は、薬の効きが早くてそのまま眠ってしまった。

翌朝、椅子に座っていた私は「昨日はごめんね」と言った。
立ち上がって私の頭を抱えて
「いいよ。ぜんぜん俺腹立ってないもん」
「・・・どうして?」

どうして。そんなはずはない。
無理してるのは態度でわかるよ。
だけど私は。
だけど私は。 

2002年6月11日(火)

手足に力が入らず震える。
椅子に座っている私には体重がない。
確かに喋っているけれど、声は頭のすぐ横あたりから流れてくる。

早く掴まりたい。
私が掴める現実は何。

会社のあと、階段の端に小さくなって、それが来るのを待っている。

彼氏が迎えにきてくれるのを待っていました。

2002年6月13日(木)

骨折した足の指はもう殆ど痛みが無くなった。

昨日の夜、思いつきで初めてサルサのレッスンを受けてみた。
新人の私を相手に体面を気にしてるのが伝わってくる先生で、2300円も払ったのにちょっと辛かった。

歩いてるだけで眩暈がするくらいだから、踊ったりしたら倒れるかもと思っていたが、意外と大丈夫で、気分転換にはなった。

だけどレッスンはもう受けないだろう。

隣の席の社員に個人的な事を話しすぎている。
なんだか、止まらない。
悪いことをしているような気がする。
とても真剣に聞いて黙って考え込んだり、質問したりしてくるからだろうか。

きっと止めたほうがいいんだろう。
とても悪いことをしているんだろう。
どう悪いのかも本当は分かっている気がする。

2002年6月14日(金)

もう出掛けないといけない時間。
休んだほうが楽なのか、会社に行った方が楽なのか、どうしたらいいのかわからない。

わかるのは辛くて動く気力がないということだけ。
ソラナックスとリタリンを飲んで様子を見ている。

2002年6月16日(日)

初のカットモデル体験。
中華街に隣接した店で、数名で一緒にスタート。
店長の「あと○分!」という声が響く中、わりと緊張した雰囲気でカットして貰う。

その後、店長のチェック。
私をカットした女の子がめちゃくちゃ怒られている。
後ろの髪をグラデーションにしたつもりが、レイヤーになっちゃってるらしく、
「もう何人やった?全然直らないじゃん」
と厳しい口調で注意した後、後ろの髪を手直しされる。

背後でのやりとりを聞きながら、私の頭の後ろはいったいどういう状態になっちゃってるのか、と心配になってくる。
女の子もショックで混乱し呆然としてるし、泣き出すんじゃないかとヒヤヒヤした。
やっぱりプロの世界はどこも厳しいのね。

先輩らしき女性に全体的に手直しして貰う。
タダなのにあれこれ注文してカットして貰い、結局2時間くらいかかった。
途中、
「お連れの方、こんなにお待たせして大丈夫ですか?さっき、遠くを見つめていらっしゃいましたよ」と言われる。

マネージャーだから大丈夫である。

2002年6月17日(月)

 とんとんとんからりんの隣組。
 まわしてちょうだい、回覧版。

この歌が頭から離れない。

今日はなんと、会社から帰ってお米を研いで炊飯器にセットできた!もうエネルギー切れ。

私、絵を描かなくなった。
本も読まなくなった。
ピアノをおもちゃにしなくなった。

一人4役のトランプも、しゃぼん玉を流しに積み上げてピラミッドを作るのも、将棋でドミノも、紙を切って小さな町を作るのも、アリの巣の絵を描くのも、自分の歌やピアノの録音を流してハモるのも、卵や文房具に目鼻や手足をつけるのも、空想の物語の主人公になることも、同じ歌をずっと聴くのも。

会社で働いてくってこういうことなんだろうか。

2002年6月18日(火)

会社を休んだ。
昨日、会社の人にナルコレプシーじゃないかと言われた。
症状がそのものズバリじゃないかと言われた。

もしそうで、だからといって、これ以上もうどうしたらいいのでしょうか。

2002年6月20日(木)

今日も会社を休んだ。
昨日は薬をちゃんと飲んでいたのに、殆ど眠りながらPC作業をしていた。
「20分ほど仮眠してきてもいいですか」とトイレに行ったら、1時間も寝てしまった。

見かねたTさん(隣の席の社員にせめてTと書いてくれと言われた)に、帰り際
「明日はもう少し元気な顔見せてね」と言われたのに、夜は眠れず悲しくなるし、どうにもこうにもダメだった。
朝「ダメです!」と電話したら「ダメか!」と言われた。

マネージャーの家で寝て過ごす。
途中何度も足音とドアが開く音がして、マネージャーが帰ってきたと思って飛び起きるが、誰も帰ってこない。

夕方からとても怖くなって、死にたいとメールやチャットで話そうとするが、適当な相手が見つからないままだらだらと過ごす。

マネージャーが帰宅し、家に連れて帰って貰う。
歌を歌えるほど元気になったので、明日に期待しよう。

HPに日記を書いていることをTさんに教えました。

2002年6月21日(金)

朝から自信喪失の極地。

今週2日も休んだし出社は必至。
でもこりゃだめだと思い、始業前に友人数人に慌ててSOSメールを出す。
この時もうすでにパニック状態だった。
奇妙なメールに個性溢れる返信を貰い命を繋ぐ。
ありがとう。

午前中、Tさんにちょっと当たられただけで完全崩壊。
ダメ人間モード全開になる。全身が硬直して思考停止。
でも仕事をしなければならない。
トイレで落ち着こうとして個室に入ったら、女性陣が洗面台で喋っていて怖くて出られなくなる。

ようやく席に戻って、とにかく仕事をするために、まずTさんと空気を良くしようと会話をしようとするが、オーバーヒートして言葉に詰まり不覚にも涙が流れてしまう。

わあ、ゴメンねどうしたの、いつも言い返すじゃん、いっぱいいっぱいでイラついてたから変な言い方しちゃったかも、と謝られる。
違うんです済みません、これTさんが悪いんじゃないんです、と謝り合戦になるがもう混乱して訳が分からない。

昼にヨーグルトを食べ、薬を飲んで気合を入れなんとか仕事を始めるが、夕方からまた落ち込んできて帰り際にTさんに呼び止められる。
いろいろとなだめすかされるが謝ることしか出来ない。
申し訳ないが苦しくてどうにもできず会社を後にする。

とにかくおいでとマネージャーの会社に呼ばれる。
夜10時頃からようやく体が普通に動くようになる。
Tさんに謝罪の電話をする。

翌朝、体中が痛い。
恥ずかしくてたまらない。 

2002年6月23日(日)

いろいろありがとうございました。

明日もまた頑張ります。

2002年6月24日(月)

泣きたくて泣きたくて仕方が無かった。
でも理由がなくて泣けなかった。

どうしてこんなに悲しいのか分からない。
苦しくて泣いて吐き出したくて、何とかして悲しい理由を見つけようとした。

怒らせてごめんなさい。
それから傍にいるほんの少しの間、泣くことができた。
居なくなったら、もう泣けない。

2002年6月25日(火)

今日も泣きたくて泣きたくて仕方が無かった。

仕事をたんたんとこなしながら、会社が終わったらどうやって泣こうか考えていた。

帰り際、TさんがサルサのレッスンのDVDを見せてくれた。

「いいでしょこのビデオ。このドロップ覚えてよ」

「?・・・私に言ってるんですか?」

「そう。今日はこれからどうするの」

「泣きたくて仕方ないから、今日はどこで泣こうかっていう感じです。というか、なにで泣こうかと思って」

「泣きたかったんなら、もっと厳しいこと言った方がよかったかなぁ。泣かすのなんて簡単なのになぁ」

含み笑いで言われた。
ちょっと心外で可笑しかった。

「会社ではやめてください。とにかく帰ります、失礼します」

なんか笑っちゃう。
私を泣かすのって簡単なんだろうか。
どうやって泣かすっていうんだろうか。

2002年6月27日(木)

昨日は一日中、仕事らしい仕事を何も出来なかった。
薬も補充し忘れてて、足りなくなった。
Tさんに「明日は這ってでも来てね」と言われた。

今朝「這わないでも来れました」と言った。
少し会話をしたら「えらい元気じゃん」と言われた。

今日は仕事をするのだ。それ以外は何も考えなかった。
アメリカの会社に送る報告書と電子媒体、添える送付状を整える。

夕方、部内の女の子と仕事の用事で会話したら、また急に泣きたくてたまらなくなってきた。
あーなんだかこれ、わたし、我儘だ。

気付いたら定時。さあ今日は終わり。と思ったら、さんが横で「悲しいの?」と突然言った。

一瞬ハッとした。でも同時に

「悲しいです」と言ってしまっていた。

「なんで悲しいの?」と訊かれた。

「・・・うーん、人と上手く話せないからですかねえ」

「どうして?どんな感じ?」

「うーん、自分が大嫌いっていう感じかなあ」

「どうして?」

「うううーん、どうしてなんでしょうね・・・」

タイムシートを書きながら、正直に答えようとして少し考えたけど、ますます自分が嫌になったので、下を向いたまま黙って記入し、話が終わったことにして帰った。

2002年6月29日(土)

マネージャーの家から病院へ直行。
鬱々。
先週2日も会社休んじゃいました。
なんで休んじゃったのかな?
うーんどうしてでしたっけ。
疲れちゃったのかな?
そうかもです。
彼とはその後どうですか?
鬱で少し変な言い方したら怒って帰っちゃいました。
それからなんだかよくわからなくなりました。
私の言うことって訳がわからないみたい。
あっちがちょっと食傷気味っていうか。
あなたと付き合うのは難しいからねえ。
やだ先生ってば何てこと言うんですか。
うーんでも依存しないためにはそういう人のほうがいいかもね。
うーんそうかもですね。
あなたには色々試したけど抗鬱剤うまく効かないねえ。
リタリンでなんとか働いていくしかないよね。
そうですね。あっ先生、血の検査してください。

自分の部屋で寝る。
起きたら留守電でTさんから踊りの誘いが入っている。
鬱々でそのまままた眠る。
北海道から10万円だけ持って東京に来たカップルも、その店に来ているらしい。
あっこれは夢か。留守電は夢じゃないよな。
表参道にあるなんだか大きなホールでサルサパーティー。
ボーイがいてドアを開けてくれる。
これはいわゆるクラブとは違うぞ。
インストラクターがたくさん遊びに来ていて、その他にも凄く上手な人がいっぱい。
やたら人が多くて女の人の服装が普通でない。
キラキラして熱気と色の洪水、音楽で目が回る。

とにかく人が多すぎ。
足を踏まれたり体がぶつかったりするのが怖くて怖くて、踊りを楽しめない。
まあ鬱だからかもしれないけど。
なんで他のペアの足を踏んだりぶつかったりしても、みんな何事もなかったように踊り続けるんだろう。
まあここはそういう場所なのかもしれない。

2002年6月30日(日)

楽になりたい。
頭いたい。体いたい。
気持ちよく眠ってみたい。
何が辛いのか、何が欲しいのか、どこが間違ってるのか分からない。

誰も助けてなんてくれないんだからしっかりしろと、本気で自分に言い聞かせて必死に頑張ってきたけど、今はそれができない。

もう疲れちゃったんだろうか。
Wちゃんが全て救ってくれると思ってしまうんだろうか。
やっぱり一人だと思わなきゃ、だめなんだろうか。
少し助けて貰える世界でバランスがうまく掴めないだけで、時間が解決してくれるんだろうか。

2002年7月1日(月)

悲しくて横たわる私の隣で、Wちゃんが短編小説を読んで聞かせてくれる。

読み終わって「俺、読むのヘタだよな」と言って、頭をなでてくれる。

うん、ヘタ。漢字の読み方も間違ってる。
でも涙が流れる。
Wちゃんの手はいつもすごくあったかい。
私の手はいつも冷たい。

私かなしいけど、今日、ちゃんと働けた。
明日もきっとちゃんと働ける。
それってどういうことなのかよく分からないけど。
何か、違うような気がするんだけど。

2002年7月2日(火)

「おはようございます、さっき部長が探してましたよ」
「ああ、あのおっさんバカだから」
「なんでそうなるんですか」

今日のスタートはこの会話だった。

定時近くになって一息ついた時、
「Tさん、気疲れしてるでしょ」と声をかけた。

「ああ・・・。ほんとイヤんなるよねえ、そもそもこれが変だしさ、あれも・・・」

しばらく会話する。

あなたもたいへんだよね。
妥協出来なくて、人のこと解らなくて、解って貰えなくて、弱音吐けなくて、ひとりで。
色んなこと、ぜんぶ難しくって、大変だよね。

レストランに入った時、コースメニューを見ながら
「ごめん、システムがわからなくて」と本気でうろたえていた。
「システムなんて無いですって」と私は笑った。
店員さん呼んで、自由に訊いていいんだよ。
シミュレーション無しじゃ何も上手くいかないと思ってる。
それじゃ、心配ごとだらけだよね。
でもその気持ちわかる気するから。

2002年7月3日(水)

よく眠れず、起きれない。
ふと気付くと、目の前にマネージャーが正座で待機していて驚く。
明るくひきずり起こされてロフトを降り、洗面所まで運ばれる。

マネージャーと一緒に出勤するのは最近リタイヤした。
出勤時間に差がありすぎるし、ひとりでも眠らずに身支度を続けられそうな程度には、朝の調子が回復したからだ。

昨日の夜マネージャーが
「コツを掴んできたぞ」と何やら納得していた。

今の会社、辞めるのが寂しい。
仕事しながら泣きそう。
鬱だからかと思ってたけど、ひょっとして、ずっと泣きたい原因はこれか?!

卒業式とか送別会のたぐいで泣く気持ちなんて、自分には一生わからないと思ってたけど、こういう感じなのかも知れないなぁ。

2002年7月6日(土)

鬱々。

今週は皆勤の上に木曜に部の飲み会にも出たし、頑張りすぎたのかなぁ。
なんだか拗ねてる部長をひっぱって「銀恋」をデュエットまでしたよ。

だるくて気持ち悪くて頭が重たい。
休みなのに何もしたくない。

薬飲んで寝て、薬飲んで働いて。

ああ人生なんてこんなものかな。
虚しいけどこんなものかな。

せめて気持ちよく休みたいんだけどな。
横になってても気分が悪くて楽な姿勢が見つからない。

銀恋:「銀座の恋の物語」というデュエット曲です。

古すぎて知ってる方少ないでしょうね。

2002年7月8日(月)

金曜日になっても嬉しくない。
土日も鬱々。今日も鬱々。
ちゃんと眠れない。何もかもいや。
なにかっていうと昔のこと思い出して涙が流れる。
もう私の辛さは会社にいることとは関係なくなったみたい。

無理して仕事を続けたせいで、楽になり方を体が忘れちゃったのか?
はたまた職場を変えるのがそんなに寂しくて嫌なのか?

わからない。理由を考える気力も無い。
季節の流れ、時間が解決してくれることを祈る。

隣のTさんが「気持ち悪い」、と吐くジェスチャーをする。
なんだか顔色が悪いみたいだ。

「吐いてきていいですよ」と答える。

仕事はそれなりにやったが、やる気の無いことこの上なし。

「調子どう?」と訊かれて、即座に「鬱です」と返事をする。

それから5分おきくらいに(多分ギャグだ)「どう?治った?ダメ?」と訊かれる。

「そんなすぐ治りませんよー」と言いながら仕事をする。

先週あたりから、Tさんの言動に、誕生日プレゼントを買ってくれる気配を感じる。
気配が日に日に強くなってゆく。

ああー、それはぁー。
でもはっきりしないので対処しない。

なんかつくづく私ってやつは。

2002年7月14日(日)

水曜日、成行きでTさんと飲むことになった。
二人だけになってしまったので、深刻な話になってしまった。
Tさんがとても可愛そうになった。
カクテル10杯くらい飲んでいた私は、寂しいのも手伝って離れたくなくなってしまった。
結局、会社からすぐのTさんの家に寝かせて貰うことにした。

マネージャーはこれはさすがに許してくれないだろうと、Tさんのマンションに向かう道すがら思う。
泊まるのは止めなければいけない。

だけど一方で、嫌われて、辛い目にあってしまえ。
また一人で耐える辛さを思い知れ。
という気持ちが抑えられなかった。

マネージャーに話すと「理解できない」と物凄く怒った。
私は、自分に付き合わされるマネージャーが苦しむのは、もう嫌になった。覚悟を決めた。

「もう一人で頑張れるから大丈夫」というメールをした。
マネージャーからも「さようなら」というメールが来た。
さあ、また一人で頑張ることに慣れなくてはならない。

ひどい鬱で木曜の会社が終わって、ロビーに座ってずっと帰れないままでいた。
私はまだ、一人で耐えることを我慢できるほど、気持ちの切り替えが出来てなかった。

Tさんに「お疲れ様です。まだお仕事中ですか?」とメールをしてしまった。
結局Tさんが仕事を終わらせて来てくれた。
1年一緒にいて、今までにない元気のなさだったから、と言う。

来てくれて安心したが、私はすぐ混乱に陥った。
このまま家に送って貰えばいいのか、食事に付き合って話を聞いてもらえばいいのか、Tさんの家に行けばいいのか。
どれもみんな、やってはいけないことなのは解っている。
だけど私は促されるままTさんの家に着いていった。

途中、マネージャーから電話がきた。
「Tさんと一緒でもいいから、とにかく迎えに行くから」
私は泣きながらうん、うん、と返事をした。

Tさんの家に着いて黙ったままの私に、どうしちゃったの、どうすればいいの、とずっと訊いてくれる。
わたしは何も言葉が出ない。

ようやく「彼氏が迎えにくるんです」とポツリと言った。

「それじゃあこんなとこ来ちゃダメじゃんか!(はい、そうです)僕はどうすればいいの?!」

多分、彼が迎えに来たら、私は帰るんだと思います。

マネージャーから「着いた」と連絡が来て、私はマンションを出る。Tさんが途中まで送ってくれると言う。

別れ際、何度も頭を下げた。

翌日Tさんにまた謝った。
だけどもう「謝られても・・・。ただ、全てが訳が分からない」と言われるだけだった。
悲しいけど当然です。

「最初パニックになって判断力が無くなるんだろうけど、その後なんらかの判断をしていて、それがかなり残酷だったりする」
メールで言われた。

ズキズキしたけど正直に返信した。
「はい。私は私を好きになった男の人には残酷です。たぶん、それでも受け入れて貰えるのか試したくなるのでしょう」

「受け入れて貰えるか試してどうするの?」

「目的がある訳じゃなく、そうせずにいられなくなるんです。衝動です。精神的な受容を求めつづけてるから」

「受容を得て瞬間的に満足したとしても、相手にとんでもない焦燥感を与えてしまうことがあります」

「相手を辛くさせてしまうことは良く解っていて、とても辛いです。止めたい。一瞬も満足は得られません。自己嫌悪、鬱に陥るだけ」

それから返事は来なくなった。
やっぱり理解できないと思われたんだろう。

私は私を好きになってくれる男の人を傷つけてしまう。

苦しいだけなのに止められない。

私、治らない。同じ事の繰り返しだ。

母親の代理を求めることを止められないのだ。
もともと原点はこれだったんだ。
諦めようと頑張ってきたけど、満たされない思いは忘れられたようでいて全然消えていない。

それどころか、忘れようとして過ごせば過ごす程、触発された時に症状が重くなっていく。

母親に、もう一度、本気で一緒に治療に協力してくれないか、病院に来て、自分の意志で、先生と私と一緒に話を聞いてくれないか、助けて、と昼休みに電話で本気で頼んだ。
「・・・お父さんに相談しなくちゃ・・・」
「それじゃだめ。お母さんの意志で来て。お願い。お父さんに相談するなら、お父さんも一緒に来てくれなきゃ駄目」
最後に「・・・分かった。お母さん怖いけど、飛び込んでみることにする」と言ってくれた。

ホッとした反面、やっぱり怖かったから、何も訊いてくれずやり過ごしてきたのか。
自分は幼い私にあんなにあんなに長い間頼りつづけてきたのに!
私がどれほど一人で死ぬほど怖い思いしてきたか解ってるのか!と
怒りが沸く。

土曜日、先生にも事情を話し、何があったかも必死に全部話す。
人を傷つけたくない、自分も辛いだけ、止めたい。
うん、うん、そうだよね。と先生が聞いてくれる。

新しくまた力を貸してください、お願いします。
両親が病院に来てくれることになりました。

わかった、うん。頑張ろう!やろう。頑張りますよ。
復讐するためにも、頑張ろう。やっぱり根本はそこだもんね。

この先どうなるか解らないけど、怒ってくれたマネージャーとTさんの正直さのお陰で、また新しく挑戦するものが出来た。

本当に本当に、迷惑をかけて、苦しませて、ごめんなさい。

2002年7月15日(月)

人を普通に愛することができません。

2002年7月16日(火)

Tさんが仕事をしながら私を見ては「性格悪いんだもんなぁ・・・」と言う。
一日に何度も何度も言う。数えておけば良かった。

「あーはい、性格わるくてもういいですー」仕事を続ける。

直感で口から出る私の言葉で死ぬんだそうである。
何を言うか怖いんだそうである。

「じゃあ何も言わない方がいいですか?」

それも困るんだそうである。

2002年7月18日(木)

「捨てるなり売るなりしてください」と、先週末にTさんがくれたのは、ピンクゴールドのブレスレット。可愛らしい。
迷惑かけすぎでもう嫌われたと思っていたので、プレゼントをくれたということが嬉しかった。

本当に欲しいものは、私のおかしな思考回路が治る薬。
そんなものどこにもない。

明日は初めて両親と一緒に、診察に臨む。
怖いんだろう。最近どんどん調子がめちゃくちゃになっている。

眠気も酷いし無気力で仕事が進まず、考えた末に昼のリタリンを増やしてみた。

Tさんに

「午後に薬を飲んだ後、15分くらいぶっ続けで喋っていて、急に『気分が悪くなりました』とトイレに行き、また急にテンションが落ちた。物凄い変わり様だった。何か疲れるねぇ・・・」と言われた。

喋っていた内容は覚えているけれど、そんなにテンションが違う自覚はなかった。驚いた。
お喋りになっても仕事しなきゃしょうがないじゃないかー。

思いつきで帰りに以前バイトしていたPCスクールに行く。
Webデザインの仕事について少し話を聞いてみる。

その後カラオケに行き(殆ど歌わなかったが)Tさんにまた「疲れさせて済みませんでした」とメールをした。
ここんとこ、夜になると一日の事が思い出されて、すべてが心配で頭から離れなくなってしまうのだ。

「薬を飲んだあとのテンションの変わり様にビックリしただけです。明日もお互い頑張りましょう」

と返事をくれた。

やはりリタリンは半錠ずつにしよう。

というか、もはやそういう問題じゃないような気がする。

リタリン:今は精神科では処方されない薬。

かつて「合法覚せい剤」と呼ばれていました。

2002年7月21日(日)

土曜日、花火大会に母親の浴衣で出掛ける。

ボーっとしている私は、マネージャーに手を引いて貰いながら、久しぶりに会う友達と会話しつつ人込みの中を移動。

仲良くして頂いてるお姉さまに、誕生日プレゼントと北朝鮮旅行のお土産を頂く。

プレゼントは花をモチーフにした、シルバーとブルーのブレスレット。
「ブルーにしてみました!」なんて相変わらず洒落が利いてます。
たまたまなのかな?
でも私はブレスレットが好き。

北朝鮮のお土産は、ワンポイント刺繍入りのパンツ2枚。
貰った当日に早速はいてみる。
小学生仕様のシルエットで、けっこう笑える。
気付くとマネージャーがもう一枚を頭に試着している。

面白いと思ってる漫画の最新巻も貸して頂き、待ちきれない私はその日の内に読んでしまいました。

この日記の漫画は「ベルセルク」です。

2002年7月22日(月)

今日はマネージャーがうちに来れない日。
真面目な用事があるのだ。

明日の朝は一人でしっかり起きて支度をしなければ。
マネージャーもみんなもー、頑張っているんだからー。

2002年7月23日(火)

Tさんを仕事中に怒らせてしまい頭を下げる。
会社が終わって、一時間以上ロビーで眠る。

イラストコーナーに載せようか・・・と久々に思う落書きが見つかる。

だけど、スキャナで下書きとして取り込んだだけで今日はダウン。

2002年7月28日(日)

先週の金曜、病院に来たのは母親だけだった。

先生の言葉に対して、とても改まったお行儀良い言葉遣いで、理屈では良く理解しているということを必死に弁明するだけで、なかなか話が伝わらない。

だけど全く乗り気じゃなかった父親が、母親づてに私の話を聞き、「そりゃまずいな」と今度からは来ることになったそうだ。

なにが「まずい」のかは、たぶん私が一番苦しい事とは違う。
だけど、あの父が私の為に病院に足を運んでくれるだなんて。

急に、夜にある程度眠れるようになった。
寝つきも良いし、目覚めもよい。

2002年7月28日(日)

なんとなく実家に電話をしたくなった。
父親が出た。「お母さん、居ないんだよな・・・」と言う。
この時点で少し悲しくなる。

そして
「お前の言いたいことなんて聞かなくても解ってるんだよ。まったくいつまでもいつまでもマイナス思考で、本当にしょうがないな」

とイライラと言われた。

「私、マイナス思考じゃない」と言って電話を切った。

私を夫婦間で押し付けあうのはとても悲しい。
私はマイナス思考じゃない。
怠けてなんかいない。

だけど、他人なら平気だけど、親に言われると立ち上がれなくなる。

涙を流しながら横たわっている私を、マネージャーが動けるようにしてくれた。

2002年7月29日(月)

朝4時に覚醒し、うろうろと動き回る。

雑談をする気力が全然ない。
せめてもと、なるべく仕事をすすめる。

仕事のあと、帰る気力もない。
1階のベンチに座ったまま目を閉じている。

会社帰りのマネージャーが迎えにきてくれた。

2002年7月31日(水)

また4時に覚醒して徘徊する。

トイレで寝てしまわないように、最近は携帯を隠し持って行く。
私が戻ってこない時は、Tさんが携帯を鳴らしてくれることになった。

悲しくて、仕事の終わりに窓の外をボーッと眺める。
淡いピンクの空。
私は今ここでいったい何をしているんだろうか。

なんだか自分のルックスにも内面にも自信が無い。

口角炎が出来てるし、吹き出物もそばかすも増えたし、ピアスの穴が膿んできて痒いし、体の皮膚のあちこちが炎症を起こしてて、痒いし色が変わったり、ずっと血と体液がじくじくしたまま乾かないところもある。
もともと沈んでるのに、ますます何もかも嫌になってくる。
あーせめてビタミンを取らなきゃなぁ。
でもまだ今日も食事らしい食事してない。

私はなんでもキレイなものが好き。すごくすごく好き。
でもキレイにする気力がない。

Tさんが皆で手のリズムに合わせて「みかん」だの「りんご」だのを言う類のゲームで、私の知らないやつを教えてくれた。

私の仕事が終わった後、ビル内の喫茶店で少しそのゲームで遊ぶ。

帰りの満員電車で隣のおじさんの携帯の着信メロディが気になる。
バイブにしろよ、と思いつつ曲が気になる。
短調で和風の曲なのだ。
知らないメロディなので気になって仕方が無い。

聞いてみたら、中日ドラゴンズの応援歌だった。

今日はマネージャーが来ないので寂しい。
見捨てられたのかも知れないなぁと悲しくなる。
だけどもしそうでも仕方がないよなぁと思う。

2002年8月1日(木)

だめです。

2002年8月3日(土)

本当に、生きているだけなんだなあ。

人に迷惑をかけてはいけないと、なんでも我慢して飲み込んでしまおうと、自分が見えなくなるほど強く思いつづけてきたのに。

私には今、本当は迷惑をかけたくてかけたくて、仕方が無い自分がよく見える。

私の中に幼い頃からコツコツと積み上げられて、体中を支配していた(だけど意味がわからない)道徳からは、もう遥か正反対の場所まで来てしまったよ。

直す気なんていくら問いかけてみても起こらないから、「ごめんなさい」と言う事も出来やしない。

2002年8月5日(月)

先週気になる痛みがあって乳がんの検査を受けた。

若い男性の医者に何度も何度もレントゲンを撮られ、めちゃくちゃに触られる。
万力で締め上げられるような強烈な痛み。
乳汁が少し飛び出て「あ・・・。初めて見ました」と驚く。
子供がいなくても出るもんなのか?

「痛いです・・・」と言いながらも「ちょっと痛いけど我慢してくださいねー」と言われるまま、検査だからしょうがない、と何度も何度も痛みを必死に耐えた。

だんだん息が切れて気分が悪くなり、合間に椅子に座ってゼイゼイ言いながら休む。

「これで最後ですから」とようやく言って貰い、その一枚の後、眩暈と吐き気で崩れ落ちてしまう。
頭上で医者が「あ、どうしよう・・・」とつぶやいている。

看護婦さんが呼ばれ、抱えられるようにベッドに運ばれる。
視界の端に、レントゲンを撮った医者が私に向かって「すみませんでした」と深く頭を下げているのが映った。
私は、いえこちらこそ、すみませんでした、と力なくつぶやいた。

検査してくれてるんだからあんなふうに謝らなくても・・・とぼんやり思った。

今日、診断の結果を聞いてきた。
心配することはないでしょう、とのこと。

外科の担当医が机の前いっぱいに私の映像を並べ、「なんか心配してたくさんレントゲン撮ってくれたみたいだけど・・・」と切り出す。

普通より多く撮ったんだ。
ああ。あの時、レントゲンの若い医者があんな風に頭を下げた理由は。
いやだ。違うよね。考えたくない。

今日は会社の後に両親と病院へ。
行く前からとても疲れている。
待合室で不安でメールばかりする。

「娘さんは病気だという事をわかってあげて下さい。不道徳だという事は本人が一番良く解っていて、とても苦しくて、それでも止められない、そこが病気なんです。どうしてそういう心理状態になったのか、そこをご家族で考えて頂きたいと思うんです」

その後、3人で居酒屋に入る。
何事も無かったようにビールを飲み、半笑いで話す父親を見ているのが耐えられず、私は涙を流して箸を持ったまま動けなくなる。

突然「ごめん、会社行けなくなるから帰るね」と、殆ど何も食べないまま店を飛び出した。
母親が「大丈夫よ」と言ってくれてる声が聞こえる。

泣きながら駅に向かいマネージャーに「はやくきてね」、とメールをする。

2002年8月6日(火)

先生に言われた通り、
朝は抗不安薬と、リタリン1錠を飲む。

夜はちゃんと眠れなかったし、今朝は辛くて辛くて、会社を休もうかと悩みながら支度を何とか続けたけど、頑張って出勤したら意外とちゃんと働けた。
昼に抗不安薬とリタリンを半錠飲む。
眠気も薬切れの辛さもそれほど感じなかった。

リタリンは朝は一錠飲んだ方がいいのかな。
以前、昼に一錠飲んだらお喋りになって疲れただけだったので、リタリンは半錠ずつ、と思っていたんだけど。
不思議。

日傘の骨の先端の縫い合せ部分が切れて使えない。
さらに今日の出勤途中、履き古したサンダルの紐が取れた。

家に帰って、サンダルの紐をボンドで止めて、洗濯バサミで止めた。
乾けばまた履けるかもしれない。

日傘も縫い直した。明日は使える。

2002年8月7日(水)

なんか今日と昨日、調子が良い。
会社の帰りにマネージャーと軽く飲む。
また急に新しいことを始めたいような気持ちになってきた。
デザイン系の夜学。
水商売の一日体験アルバイト。・・・

朝のリタリンを半錠増やしただけで、こんなに違うのか?
はたまた躁になる前触れか・・・。少し心配。

Tさんが最近何故か、私のHPの英語版を作ってくれると言う。

最初は「どうして英訳するのだ?」と全く無意味に感じていたが、日本語なんて読める人はほんの一部だけじゃん、英語にすれば一気に裾野が広がるんだよ、という言葉に、なんだかだんだん面白そうに思えてきた。

英語はあんまり出来ないけど好きなほうだし、勉強にもなるしなぁ。

でも、日記の文章はちゃんとした日本語にすらなってない。
それに内容的にもニュアンスを表現するのが大変だと思う。
実際やるとしたらそのあたりを相談しながらやることになる。

やれたら面白いだろうな。
だけどそんなことできるのかなー。

2002年8月11日(日)

今週から突然、小説が少し読めるようになった。

木曜日に三原順の漫画を読んだ。

次の日の朝、消息が分からないという事実に直面するのが怖くて、電話も出来なかったほど大好きな女の子の家に電話をした。
元気にやっているようだった。

私男の人は本気で愛したことなんて多分ないけど、○○ちゃんのことは愛してたわー。

ありがとう。うーん何て言っていいかわかんない。

あはは、まあそれはいいんだけどね。

会社に行けない。
連絡を入れる。
とにかく出勤する。正午に着いた。
でも働けない。
成行き上、無理して少し仕事をする。

会社が終わって、逃げるようにエレベーターで降りる。
トイレで1時間眠る。
ベンチに座る。怖くて仕方がない。涙を流す。
気が狂いそうになる。
私は病院で、薬で、親に頼んで、何を治そうとしている?
ひょっとして大切なものを消そうとしているだけかも知れない。
どこまで人に助けて貰ったら気が済む?
どんなに辛くても、人には人の都合があるという事を分からないような子供じゃない。
漫画を読まない方が良かったのでは決してない。
だって読みたかったんだから。
新しいものを避けたり感受性が鈍くなって楽になれるんだとしたら、苦しくてもそのままでいる方がいい。
でも私は人に迷惑をかけずには生きていけない。

その日、マネージャーは仕事の都合で来られない。
自分が現実からどんどん離れていく。誰か。
母親が迎えに来るまで喫茶店でTさんに傍にいて貰い、手を引かれて実家に行きぐったりと一泊し、そして次はマネージャーが待ってる私の部屋に逃げ帰る。

そしてマネージャーが今日から、実家に帰った。
すぐに来てなんて貰えない、遠いところ。
送り出した後、やっぱり怖くてたまらない。倒れているだけ。
両親だって、お盆休みで遠いところへ出掛けてしまう。

何がそんなに怖いんだろう。
でももう、そんなことは考え尽くしたよ。
つまり何をしたってこういう人間なのかも知れない。
と思ってしまうのは、私の大嫌いな諦めですか。

2002年8月20日(火)

出勤前で時間が無いけど、少しでも書ける時に書いておきたい。

最近、毎日が不安定極まりなくめちゃくちゃです。
だけどお母さんもWちゃんもTさん始めとする会社のみんなも友達も偶然遭った人たちも、みんなみんな、本当にありがとう。

2002年8月20日(火)

昨日、仕事中とても苦しかったので、会社のあとマネージャーに迎えに来て貰ったのだが、電車の中でだんだん呼吸が物凄く苦しくなってきた。
肩で大きくゼーゼー息を吸いながら、マネージャーにしがみついて歩く。
足の感覚が無く、目が回ってうまく立てない。

部屋にやっと着いて、マネージャーがレキソタンを飲ませてくれた。
布団を敷いてもらってすぐに休んだ。

マネージャーの寿命はまた少し縮まったことだろう。
でもこうやって思いも寄らないことを乗り越えていく度に、度胸が座ってくるのよー。

今日は少しふらついてたけど、調子はそこそこだった。

明日から5日間、Tさんが夏休み。
何となく歌いたい気持ちになって、カラオケに一緒に行ってみた。

古い女性歌手のメドレーに入ってた辺見マリの「経験」を歌ったら、「なんちゅう歌をうたっとるんじゃ」と言われた。

 やめて 愛してないなら
 やめて くちづけするのは
 やめて このまま帰して
 あなたは 悪いひとね♪

Tさんはハードロックが好きなので、歌詞が時々グロいものがある。
血、骨、肉、引き裂いて切り刻んで食い尽くすー。
「これはちょっと気持ち悪い歌詞だね」、と気遣って途中で消してくれた。
私のことを、何で調子が悪くなるのかもはや分からんと思っている。
私もよく分からないので仕方がない。すみません。
グロい歌詞は気分よくないけど別に平気なんだけどね。

私が炎天下に何十秒かくらい外に出ただけで、熱中症になると心配している。
最初は冗談かと思っていたが、本気らしい。
そんなことある訳ないでしょ、と言うと、カフカだって外に出ただけで調子が悪くなったんだよと言う。
なんだか知らないけど、カフカがおかしくなったのは熱中症が原因じゃないと思う。

2002年8月22日(木)

昨日、皮膚科に行った。

状態を見せたら、こちらが何も言ってないのに唐突に

「洗剤のCMは全部ウソですから!」

どうだ、と言わんばかりに私の反応を待つ。

なんでCMの話に??しばし面食らった。

「・・・CMの・・・何が、ウソ、なんですか?」

「肌に優しいとかそういうのがウソです」

そんなCM、○フランCくらいしか思い出せないなぁ。

「柔軟剤は何を使ってますか?」

「柔軟剤は使っていません」

「洗濯洗剤は?ア○ックとか○ップですか?」

「銘柄は、そういうのは使ってないですけど・・・。無蛍光ので、安いのなら何でも使います」

だんだん、決め付けた言い方が感じ悪いなぁと思い始める。

衣類用洗剤に気をつけろと言いたいのは分かったけど、何故、私がCMに踊らされているんですか?
何故、私の使っている洗剤の名前をそんなにも明白にしたいんですか?

「身に着けるものは、全部ア○ロンで手洗いしてます」と言ってみた。

そしたらなんと、

「ア○ロン?そんな洗剤あったかなぁ」

と首を傾げているではないか。

話の流れからして、ア○ロンを知らないなんて変じゃないでしょうか。

あと、ボディソープは止めて、とにかく固形石鹸にしたらすぐ治ります!とのこと。
理由を聞くと(なんだこの患者は、という態度で説明してくれた)液体ソープは洗浄力が強いそうで、液状にする為に界面活性剤だかカリウムだかナトリウムだか何とかで、肌の油分を奪うそうだ。

「固形石鹸では、どんな銘柄のがいいですか?」

「うーん、いいやつを知ってるんだけど、十何万するんですよね」

「いえ、スーパーとかで普通に買えるようなものの中で・・・」

「すごーくいいのを知ってるんだけどなぁ、十何万するんですよね」

2002年8月25日(日)

実家にいる夢を見た。汗びっしょりになって目覚めた。

私はお菓子がとても食べたくなって、自分の持ち物をあさるが、薬のような小さなタブレットしかない。
少しかじりながら一階にフラフラ降りて、

「なんかお菓子、ないかなあ」

と母親に訊く。

「そこにあるでしょ、前から言ってるのに、あなた、食べたくないって言うんだもの」

指差した方を見ると、小さなケーキが二つある。

「あー・・・これ、ケーキだったんだ。今まで分からなかったの。・・・これ、何日経ってるの?」

知らないわよ、とそっぽを向かれる。

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友達と大勢でどこかに遊びに行ったらしい。
帰り道で、そのうちの一人の女性と、実家の近所の薄暗い住宅街を一緒に歩いている。

道路から少し奥まった場所にゴミ箱を見つけた彼女が、ゴミ箱に駆け寄って、鞄に持っていた札束をどんどん押し込み始める。
札束は、全部ギャンブルで勝ったもの。

「どうして捨てるの?」

道路に立ったままの私が訊くと、

「この子、最初ここで一枚だったの。仲間が増えても、元の場所に一緒に置いてあげなくちゃならないでしょ」

なんだか追い詰められているんだなぁ・・・と思いながら私は彼女の行動を見ている。

明日、ここに来て、このお金、お母さんに持っていこうかなぁ。
あ、それじゃあダメか、警察に一度届けないといけないんだなぁ。

そのうち彼女が、さらに奥の階段を昇り始める。
手にお札を一枚もっている。
階段の上の古い木造の家の柱にそれを押し当て、釘で無心に打ちつけ始める。
お札がいつの間にか緑色の少し大きな紙になって、白い文字が書かれている。

「やめなよー」階段の下で私が言う。
彼女はもう外の音など聞こえない。
階段を昇って、体に触って、止めさせなくちゃ。
安心させなくちゃ。

だけど私は友達の傍に行くのが急に怖くなる。

怖い。何とかしなきゃ。共通の知り合いに電話しようと携帯を見るが、この人なら、という相手が決められない。

そしてそれがだんだん自分だけの恐怖に変わっていき、何故か父親の携帯に電話する。
父が助けに来てくれる場面を夢のように思い浮かべる。

という夢を見ました。

2002年8月27日(火)

一般向けでない、医薬品情報のページを見た。
自分の使っている薬を全部検索してざっと読んでみた。

薬には全部、(記載上はまれなパーセンテージだが)その効能に相反するような副作用がある。
リタリンにもアトピー関係の副作用があった。ショック。

皮膚科でステロイドの塗り薬を4種類も出され(殆ど使ってないけど)、内服薬も出されるところだったのだ(これは断わった)。

精神系のどの薬も、食欲減退は当たり前、不安、焦燥も、使っている殆どの薬の副作用として載せてある。

なーんか、薬飲むのやっぱりイヤになった。
ワケわからんことが私の体内で行われている気がする。
副作用を抑えるために薬を飲んでいるような気がしてくる。

精神系の薬を急に止めると本当にきつくなるのは十分承知なので、これからは食生活に十分気をつけて、毎日半身浴で汗もかくようにして、リラックスは薬じゃないものでするように努力して・・・

じっくり様子を見ながら気をつけて頑張るから、徐々に薬を減らす生活にしていきたい、と先生に正直に話してみよう。

私はやっぱり、嫌いなものを体に入れるのは嫌い。

2002年8月28日(水)

おとといは病院の日だった。

呼吸が苦しかった日のことを話した。
状態だけ言って、わざと「過呼吸?」と言わなかった。
よく「死ぬ!と思って救急車を呼ぶほど苦しい」って言うから、違うんじゃないかなぁと思っていた。

だけど先生が、パニック障害についての小さなパンフレットをあっさりと母親に手渡す。

私に「あなたは知ってるよね」と言う。
わざと言わなかったのがバレたかー。

後でパンフレットを少し覗いて見たら、
「死ぬことは絶対にありません。安心してください」とか「必ず治ります」とか「電車で起こすと電車に乗ることへの恐怖感が」とか「手足の震えもパニック障害の症状」とか、明るいパステルトーンで可愛らしく図解してある。

手足の震えなんてしょっちゅうだし、発作だなんて思ったことなかった。
呼吸が苦しいことも昔からよくあったし、確かにあの日はものすごく苦しかったけど、あのくらいで死ぬなんて思わない。
見ていたマネージャーの方が可愛そうだった。

でももし他の人が急にああなったら、ビックリして救急車を呼んでしまうのかも知れない。

それと、そういう症状を知ってるからこそ、マネージャーが居て甘えてたのも手伝って、あれほどまで苦しくなったってのもあるんじゃないかと思う。

2002年8月30日(金)

会社を休んだ。
一日中横になっていた。
体は大丈夫だけれど、心がからっぽ。

昨日、マネージャーの手が少し体に触れただけなのに、反射的にすごい勢いで振り払ってしまった。
改めて確かめてみたけど、恐怖で体が拒絶してしまう。
ああまたか。

みんな大切にしてくれるのに、助けてくれるのに、どうしてか私は一人になりたい。
なのに苦しい。寂しい。
このままここに居なきゃならないなんて。

2002年9月2日(月)

何時の間にか9月になってる。それも2日目。

座っているのも苦痛なのだ。
倒れているだけで一歩も外に出ないまま、4日過ぎてしまった。 さすがに足の筋肉の衰えを感じる。

支度はどうにかするんだけれど、外に出られない。

私は、会社に行って、残ってる仕事を、ちゃんとやらなくちゃならないのだ。

と、文字にしてみる。

2002年9月3日(火)

リタリンを飲んで、なんとか会社に行けたのだった。

足はだるいしとても疲れた。

Tさんと仲良くする元気がなかった。
楽しくやりたいんだけど、笑顔なし。会話なし。
黙々と仕事をした。

永久に作り続けられるんだよ!と「カスピ海ヨーグルト」を持って、マネージャーがやってきた。

私は動かない生き物を家に置くのが何となく怖い。

今、カスピ海ヨーグルトの菌が冷蔵庫の中に。

2002年9月4日(水)

リタリンを止める計画は断念。
肌が汚くなるのがすごく嫌だから、もう絶対飲みたくないと思ってたんだけど。

リタリン無しじゃ立つ気力すら出ない。
そういえばリタリンを飲まない土日は、無理に連れ出されないと寝たきりだったんだから、当然と言えば当然かも。

雇われの身だから仕方ない。
今は実験できないな。
というか、実験する気力も無くなった。

会社に行っても営業用のテンションが作れず、Tさん以外の人とは挨拶するだけで目も合わせない。
もう辞めるまで一ヶ月切ったのに、避けてるような態度しかとれない。
相手の言葉に「?」の間を感じる。

Tさんが、21日ゴールデン番組のオープニングに一瞬映るんだそうだ。

「あれが遺作になるかも知れないなぁ」

「別にTさんの作品じゃないでしょ」

「どうしてそういうこと言うのかなぁー」

Tさんに遺品を貰った。お菓子と扇子と乾電池。
食事もご馳走してくれた。
今日あたり死ぬかもしれないらしい。

2002年9月8日(日)

カスピ海ヨーグルトの世話はマネージャーの担当。
「菌」が「増殖」して、さっそく一杯目が出来たらしい。
恐ろしいのでまだ食べていない。

金曜日にTさんの言動がいよいよおかしくなってきてたので、「元気ですか」と生存確認メールをする。

「精根尽き果てる限界です」と返事がきたが、どうやらまだ大丈夫の様子。
よかった。

昨日はマネージャーの家でひとりぼんやり過ごした。
姉から携帯に電話がきて、職場の人間関係の愚痴を延々と聞く。

今日は自分の部屋でひとりぼんやり過ごした。
というかずっと倒れていた。

遊びに出掛けたマネージャーから電話がきて、(私は動けないのでキャンセルしたのだ)みんなで砂浜でのんびりしているところだと言う。
仲間内の男の子がひとり海で泳いでるという。

私も、海に入りたい!
波にもまれて、ぐちゃぐちゃになって、海水飲んで、溺れかけて。

2002年9月11日(水)

眩暈と疲労感で普通に歩くのがしんどくなってきた。
朝は目覚ましや電話にも気付かないこと多し。

夜にあまり眠れなくて、今朝いちど起きてリタリン飲んだのに、またいつの間にか寝てしまった。
15分の遅刻。

昨日は激しい絶望感で薬すら飲めなくて午前半休。

いくら調子が悪くても、行けば何かしら仕事が進む可能性がある。
だから行けそうになった瞬間はとにかく行くようにしてるんだけど、こんなんでこの先、どうなるんだろう。

どうにかして、辞めるまでに今の仕事を区切りまでもっていきたい。
でも無理しすぎて崩れちゃいかん。
いったん崩れると長いのだ。
もう崩れてるような気もするけど。
難しいなー。疲れたなー。

Tさんと言い合いになって怒らせたので、ハイレモンをあげて仲直りした。

2002年9月13日(金)

睡眠薬を飲んで10時頃に寝るようにしてる。
だけど少し夢を見ては起きる繰り返し。
夢が物凄く鮮明で、一日にたくさん見る。
現実と区別がつかない。

会社に行けない夢。作成した資料が間違ってる夢。
私が認めてる人から、人間として、見切りをつけられる夢。 

2002年9月15日(日)

カスピ海ヨーグルトの一杯目を食べてみた。
ひとくち目を口に入れるのは少し勇気がいったけど、びっくりするようなヘンな味ではなかった。
普通のプレーンヨーグルトの味と変わらない。
これなら食べれなくはない。

残りはマネージャーが殆ど食べてしまった。
翌日から二日間、お腹の調子が悪いと言う。
カスピ海ヨーグルトのせいかなぁと言う。

私はなんともないので、たぶんここんとこの夜の寒さのせいで、お腹こわしたんじゃないかと思う。

二杯目は冷蔵庫で冬眠中。
ウチでは「カスピちゃん」と呼んでいる。

一週間前、髪を更に短くした。
殆どショートで、ピンクパールで染めた。
見た目はブラウン。
髪型はさっぱりして気にいってるけど、なんとなく色がしっくりいかない気がする。

眉毛が黒いのが気になるのかなぁと思い、ブラウンのアイブラウマスカラを買ってみた。

微妙に感じが変わって面白いかも。

2002年9月16日(月)

昨日、姉からご飯食べに来ないかと電話がきた。

一度断わってまた寝たんだけど、寝てるだけなのもどうかな、と思い直して出掛けた。

姉の手料理を食べた。

姉と喋りながら食べた。

私は食べたいものも美味しいと思うものも無くて、普段は殆ど食べない。

だけど、姉の料理って美味しいんだなぁと驚いた。

姉は料理が好きで、調理師免許を持っています。

2002年9月17日(火)

ふいに苦しくなって手足が震える。
ソラナックスを飲む。

苦しい気持ちには理由が見つからない。

何も怖くないよね?
でも欲張ってはだめ。
急いで無理をしないように。
もっと生活を大切にしたい。
帰宅して薬を飲んで、晩御飯を久しぶりに作った。
手作りは、やっぱり美味しかった。

2002年9月19日(木)

勢いで仕事を進める。
自分を騙せている間に出来るだけ早く片付ける。

午後、何度目かの絶望からとうとう逃れられなくなって、真っ暗な部屋に隠れてしばらく横になる。

何かを「やりたい」と思う気持ちは、薬を飲んでいても一瞬で消えてしまう。

「やるべき」を果たす為にだけ薬を飲んで生きる時間は、あとどのくらい続くんだろうか。あとどのくらい訪れるんだろうか。

全てに興味を失っていても、ここにいなければならない。

2002年9月20日(金)

全く希望が持てない時間は、ずっとは続かないともう分かっていても、その時はそれも思い出せずただ絶望している。

最近、お世話になった人と二人になる瞬間があれば、辞めることを挨拶して、少しお話するようにしている。
今日は同じプロジェクトに携わっていた、部署の違う39歳の男性社員と挨拶して会話した。

「不景気で経費の都合上辞めて貰うというお話で伺っているけど、本当はお仕事が出来ないからかなーとか思ったりします」と言ったら、

「いやー、そーれはないでしょう!」と言ってくれた!

部のみんなとお昼も食べないし、仕事も一緒にしたことがない人ばかり。
プリンターの調子がおかしくなったり、順番待ちやエレベーターで一緒になった時に、少し場繋ぎする程度。
30名の部署で1年3ヶ月経っても、未だに同じ部なのか分からない人もいる!

グループで送別会をしてくれる。
部内でも別の女性が女性のみの送別会を企画してくれる。
私がお酒なしでの会食が辛いことを知って(知られたのは反省・・・)、社員の女性と、派遣で私と一番話す英訳担当の女性が相談しあって、いろいろと提案してくれる。
なんちゅー事だ!申し訳ないやらありがたいやら。
なんとか、ここが好きだったこと、伝えたい。

「次の職場でペース配分が出来ずに自分から辞めたら、もう組織で働くのは考え直そう。逃げ癖がつくのはイヤ」と決意し、これが最後だ、と死ぬ思いで通った。

自分から頼んで辞めなかったのは快挙。
問題だらけだったけど、ただただ必死に頑張ったことで、度胸はたくさんついた。
人間関係の悩みはない。連絡のやりとりにさほど緊張もしない。
仕事の話以外の会話は、必要だと感じる時しかしない。
調子が悪くて出来ない時は、気になるけれど無理はしない。
そういうペースが、掴めるようになった。
今の会社に入る前とは比べ物にならない。
外に出たり大勢のいる場所に行くのが
その時によって辛いのさえ我慢すれば。
突然の不安感や絶望、震えを何とかやり過ごせさえすれば。

それがこの職場の皆のお陰だってこと、伝えたい。

Tさんも心配してくれてるのを感じる。
仕事の話の途中で唐突にジャンケンをしかけてくる。
勝敗によって会話上優位に立つ感じの遊び。

彼も相当具合が悪いようで、「ほんっとうにきついなぁ。最期が近い」と、ため息をついてばかりいるので「私が辞めるから寂しいんじゃないですか」と、PCを見たままぼんやり言ったら、フフンと鼻で笑っていた。

部署の違う母親と同じ年齢の女性に

「あなた辞めるんだって?小さな体で一生懸命働いてるなーといつも思ってたの」

と声を掛けられて驚き、

「えっ!そうでしたか?」と暫くお話する。
目線が下向きがちで歩くし感じ悪く見えてたと思ってた。
親切にして頂いて、本当にありがとうございました。

部内の女性社員から「これから私、夏休みに入っちゃうから・・・」と、突然紙袋を手渡される。うわーっと思って顔を見つめたけれど、「本当にお世話になりました。私ここ、好きでした」としか言えなかった。

9月に入ったら次の職探しを始めようと思ってたのに、やっぱり終わるまで何もできそうにない。
今後どういうふうに生活するかは、もう後回しでゆっくり考えよう。

2002年10月1日(火)

気付いたら昼の2時。
荒れた天気の音が聞こえる。
ロフトで寝ているのですぐ上で屋根がメリメリ鳴っている。
また横になっていたらマネージャーからメールが来る。

マ「まだ寝てる?戦後最大の台風がきてるよ」

私「じゃあやっぱり寝てる・・・>戦後最大」

マ「戦後最大なので今日はそっちにいけないかも」

私「(いちおうふくれた顔の絵文字)」

私「うそうそ、戦後最大だから来なくていいよ、なにしろ戦後最大だからね、戦後最大」

マ「○○ピー(私)、恐いっす」

しばらくしてマネージャーから電話がきて、退社命令が出たから何時くらいに来るとか言ってくれるので、こんな台風の中、本当に来なくていいって、と答える。

昨日で仕事の契約がひとつ終わった。
作業がギリギリまで終わらなくて、データの片付けもあるし、色々忙しくて、昼間吐きそうだった。
お餞別を貰った。集合写真をたくさん撮って貰った。
精一杯、挨拶をした。
送別会の前に5分でも良いから横になりたかったが、それもできなかった。
夜、体調が良くないのでお酒はあまり飲めなかった。
カラオケをたくさん歌った。

部屋に帰って、秋らしい配色の花束を大きなグラスにうつし、お餞別の箱を開けてみて、それぞれビックリし、箱にもどし、薬を飲んで、寝た。

2002年10月3日(木)

頭かゆいなぁ。
仕事終わってから、一度もシャワー浴びてないよ。
昼も夜もなく布団に横になったまま。

もっと頭かゆくなったら洗う気になるのかしら。
じっとしているのに飽きる日が来るのかしら。

2002年10月5日(土)

姉が姪を甲高い演技声であやす姿を見て、ほほうこの人が自分より小さい生き物の機嫌をとる日がくるなんて・・・と感心する一方で、孫に首ったけな母の様子を眺めながら、目の前にある皿を床に思い切り叩きつけたい衝動を必死に抑えている私は、バカな叔母です。

2002年10月7日(月)

契約最終日のこと。

部長に一万円札を渡されて
「花束は用意してあるみたいだから、花ばかりでもなんだしなぁ。これで昼休みに好きなもの買ってな」と言われた。
てっきりそれを皆の前で贈呈するつもりなんだと思った私は、昼休みに眩暈で倒れそうになりながら駅ビルを歩き回った。

買いたいものがない!!!
かといって皆の前で開封することになる可能性を思うと、下手なものは買えない。

皆に配るお菓子と、安いクラシックギターを買って、ヘロヘロになって部屋に戻ると、Tさんが呆れていた。

「なんで、そんな大きな物を・・・持って帰れるの?」

「・・・大丈夫です、欲しくないもの買うよりは、まし・・・」

気分の悪さに耐えかねて机に突っ伏した。

結局、皆の前で渡すのではなく、部長が個人的にお餞別をくれただけだったのだが、今思うと皆に囲まれてギターを渡す方も恥ずかしいかも。

Tさんが、誰も居ない時に「早く隠して」と包みをくれた。
「わあー。・・・せっかくだから皆の前で」と言ったら拒否された。
家で開けたら腕時計だった。こりゃ拒否されるな。

3日後、時計の手首のサイズ調整に、初めて外出した。
店から「時計ありがとうございました」とメールを打った。

「どうしてますか。仕事探せそうですか」と返事がきた。

2002年10月15日(火)

外見が醜くなるのが一番きらい。
痩せすぎも嫌だし、顔色が悪いのも目に力が無くなるのも、皮膚炎も笑顔が作れなくなるのも嫌。
服を集中して選べなくなるのも嫌。
どんなに具合悪くても妥協できない。
もう記憶がとんでたり昨日のこととかも思い出せないし、自分の意識があるうちに、ゆっくりでも身辺をキレイに整えられるうちに、気力があるうちに、死んでしまいたい。
病院で、薬を飲んで、ただ生かされてるだけになる前に、「こうしたい」という意志がゼロになる前に、ちゃんと片付けてしまいたい。
きちんと働けなくなって、親の援助受けるのも嫌。
そんなことになったらますます気力なくして、動けなくなる。
母は、あなたがどんなに汚くなっても、誰にも見せないでずっと家に隠して面倒みてあげるから、と言ってくれたけど、お母さんセンス悪いからいやだ。
囲われて、汚くなる前に、死んでしまいたい。
自分の部屋にきた母親の膝で初めて泣いたけど、次の日の午前に電話が掛かってきて、北海道に居ると言う。退職の旅行券がどうとか言ってる。
週末まで帰ってこない。
それから一日たってから、
どうして北海道になんか居るんだって電話を掛ける夢を10回くらい見て、あれっ夢だったのかっていうのを繰り返したので、実際かけてなんで旅行なんて行けるのって言ってみたら、だって一緒に悩んでたらお母さんが倒れちゃうもん、と言った。
お姉ちゃんが入院した時、手術の日もスキーに行ってたじゃんか。
私はその時まだ何もわからなかったし、病院に通って動けないお姉ちゃんの面倒みて長い髪をムースでシャンプーして、ぎっちり上から編み込みに結ってあげて、喜びそうなお菓子とか本もいろいろ持っていってた。
手術で失敗して髄液が流れ出しちゃったとか言って、身内が私しかいないから呼ばれて医者と看護婦に別室で説明されて、でもまだ私あまりよく分からなかったし、とにかく危ないらしいからスキー場に電話して、こういう名前の人泊まってるはずなんですけど、って親を探してもらった。
自分の具合なんて考えるの知らない小さい時から、私はずっと家族や人のことしか考えてなかったよ。
だから全然自分の気持なんてわからないように育って、何も疑問に思わなかったし、ここ数年まで細かく体壊しながら、ずっとそうやってきた。
だから今は人には無理に世話しないように凄く気をつけてるし、でもなかなか癖は抜けない。
病院に行って先生の集中力が無いのを察すると、いくら相談したい事あっても何も言わずに、逆に具合きいて帰ってきちゃうし、先生は優しい人だけど所詮他人だし、私よりややこしい患者たくさん抱えてるし、人間だし、ましてや肉親でもないから、調子悪い時はいい加減になって当たり前。
そんな時一生懸命相談しても無駄と思うし。
今まで病院をたくさん替えたけど、わたしのこと少しでも解るのは今の先生だと思うから、ずっと通ってる。
家族のこと憎んでて愛してるのを解るプロも、先生しかしらない。
だから調子のいい時に集中して相談に乗って欲しいけど、でも商売だし他人だからなかなかチャンス掴むのも難しいでしょ。
そういう観点でいくと、自分が倒れるなんて考えもせずに子供を必死で助けようとするの肉親なんじゃないか、ってなっちゃうんだけど、苦しくてその考え捨てたくてもがいてきたけど、どうやっても私から離れてくれないらしい。
それは私がずっと家族や他人に対してそうしてきたからだと思うし、親への憎しみが消えなくて色んな症状もずっと消えないのもそのせいだと思う。
だけど愛してるから自分の中から親の存在を消すことも出来ない。
抗鬱剤も効かないし、睡眠薬飲んでても眠れないし、少し意識なくしても苦しい夢ばかりたくさんたくさん見て疲れる。
もし薬が効いててもその場しのぎにしかならない。
生きるために薬たくさん飲んで働いてきたんだけど、その為に死にそうになってるってどういうことなんだろう。
そうやって生きていくのってどういうこと?
人に面倒見られるくらいなら消えてしまいたい。
母も大変なのわかってるの。一生懸命やってくれてるの。
でも私は自分のこと自分で頑張れなくなって汚くなりたくない。
働くならどうしても無理しちゃうし、70%でやり通していく術はまだまだ身につかない。
こんな繰り返しでいい加減疲れちゃうし、もう勘弁して貰えるんじゃないかなぁって思うのはおかしいのかな。
許して貰えるくらいには十分頑張ったと思うんだけどな。
何に許して貰うのかわかんないけど。
結局はまだ私が許さないことも解ってる。

2002年10月16日(水)

えっ下の日記書いたのって昨日だったのか~。
もっと前だったような気がする。
読んでみると物凄い融通利かない人間だな。
午前中はいつも鬱っぽくてダメです。
今は夜。

マネージャーが来るのを本気で待ってる自分が恐ろしい!
子犬のように目を輝かせて待ってるなら明るいけど、そうじゃないもんな。
彼氏の態度に不安になるっていう位置は避けてるんです。
おこがましい。
だけど今は調子が悪いし目的も見失ってるから気弱。
気弱だと見捨てられる気がするの、で、そう思ってると本当に態度が卑屈になるから、実際にそうなっちゃうかも知れない、と。

マネージャーは今日、会社を休んだのだけど、朝、私は部屋に人がいるのが苦しくておかしくなりそうで、嫌いなんじゃないからね、ごめんね、ごめんね、と言って帰ってもらった。

で悪夢をたくさん見て午後になったら今度は「心細いんだけど」って電話してみたり。

鬱々で話をするとマネージャーが頭をかかえて「あー引きずり込まれそうになる~」って言うから、
ああやっぱり「症状が出てる時期はひっそり暮らすのが良いな」って、友達が言ってた言葉を思い出す。
安定剤を飲んでおとなしくガマンしてみる。

マネージャーは頭悪いから鬱にはならないよ、って、いつも私は暗示がけの冗談のつもりで言うんだけど、(マネジャはその気になりやすいのだ!)人間的におかしいのはやっぱりこっちだよなぁ。

2002年10月17日(木)

マネジャはよくウチの全身鏡で自身をチェックしている。
気付いてる人もいると思うけど、けっこうお洒落さんなんです。

ある日、「鏡みるの好きだよねー」と言ったら「俺フェミニストだから」と言われた。

こんな時、全くの他人だったら何て言っていいかわからんので、元来面倒くさがりの私は多分「ふうん」で流して別の話をする。
でもマネジャは一応いちばん身内に近いと思ってるし、彼のセンスは普段から掴み所がなく黙っていられない。
ギャグなのかマジボケなのかつい確認してしまう。
まあどっちにしろどうかと思うが。

ちなみにこれは本気で間違えていたことが判明した。
でも何となくギャグよりは良いような気がした。

「ナルシスト」と言いたかった模様。

2002年10月22日(火)

お母さんを守る為ならいつでも死ねます。
子供の頃からずっとそう思っています。
今日、母親の言動から感じる事を、ずっと自分の中で打ち消してきた事を、悲しさのあまり口にして確認してしまいました。

それでハッキリしちゃったんだけど、お母さんは「我が子の為なら死ねる」というのは、テレビや小説の中だけのお話だと思っているみたいです。

私が夢を見過ぎなのかと思って、マネージャーにメールで訊いてみたら、やっぱり親なら誰でも子供の為なら死ねるんじゃないかな、と言いました。

どうして私もお母さんのように育たなかったのかな。
そしたらこんな病気にならずに済んだかもしれないのに。
このままじゃ、お母さんを守るより先に死んでしまいそうです。

2002年10月25日(金)

一日中横になっていて、自分から外出する気力が全くありません。
痩せて骨が出すぎて、寝ていると当たって痛い。

なんだか入院することになるかもです。
水曜日、母親同伴で診察を受けにいったら、母が初めて自分から先生に話を切り出し、私の書いたものを先生に渡しました。
それからもう、涙が顎からポタポタ垂れるのに任せて、じっとしていました。

「かなり苦しいね・・・。四面楚歌だねぇ・・・。疲れたね、だから休みましょう」

と先生に東京の病院を紹介されました。

オイオイちょっと待てよ?とどこかで思っているんだけど、どうしてか流れを変える気力はゼロです。

家族療法で、親も病院に通わなきゃならない様子。
申し訳ないな・・・。
でも変なの、そんなの絶対ダメだ!って、いつものように奮起できない。

家族療法と行動療法、レクリエーションがあるみたいです。
少しは生きていこうと思えるようになるといいな。
親は交通費や入院代の事は何も言わないでくれてます。
母はむしろ明るく
「このままいるより、なんでもいいからやってみよう」と、励ましてくれます。親への罪悪感が消えないけど、嬉しかった。
でもその日から母が不機嫌になったような気がするのは、私の思い過ごしかな。

いいや、頭まっしろにして甘えさせて貰おう、と思う反面、ここで入院したらお金の事を一生恩に着せられそうで怖いなぁ・・・。

私って入院していい人なのかな。
入院したら私の何が変わるんだろう。
でもこのまま生きていてどうするのか、今は何も分からない。
だから入院するのかな。

2002年10月26日(土)

ふと気付いたんだけど、いろんなもので汚れた自分の体に苛まれることが、なくなってきてる気がする。

年をとるってステキ。

2002年10月27日(日)

私は目が見えなくなってるんじゃないだろか。

私が元気な演技ができることを知って、元気のない演技もできるんじゃないかと言われた。
もしそうだったら信用できないと言われた。

「ひどいなぁ・・・」と言ってまた泣いた。

はい。きっと具合の悪い演技もできる。
もうやっているかも知れない。

だけどそんなことはどうでもいいの。
辛いのは、お母さんがどんなウソをつこうとどんな病気になろうと、黙って死ぬまで面倒みてあげると思っているせいだ。
そして、お母さんだけには、私のこともそう思って欲しいのだ。

そんなの、剥がして捨てたくて堪らなかった。
剥がそうと思って頑張ってみたけれど、随分おそくなってから気が付くと、自分を騙して生き長らえているだけだった。
寂しさは体をまやかしの愛情で痛めつけることによって。
私に性的な目を向ける男の人を痛めつけることによって。
そして罰が欲しくて、もっともっと欲しくて、苦しんでボロボロになりたくて、いつも、今度こそ死ぬかもなあと思っていた。
死ぬほど辛くなると知っているのに、「止めなくては」とは気付けなかった。
ただただ罰が欲しかった。
暗い暗い世界。二度と戻りたくない。

もう目が見えなくなってるんじゃないか。
自分の悲しさも嘘みたいに思える。
涙がいくら流れても、ただの思い込みかも知れない。
頑張ろうと思って向かっていったはずが、何時の間にかどんどん逃れられなくなっているんじゃないか。
お母さんが大切なのも嘘?
発作も嘘?不眠も、鬱も、震えも、みんな嘘?
頭がおかしいんですか? 

2002年10月28日(月)

今日、東京の病院に入院相談と見学に行ってきました。
閉鎖病棟に入院することになりました。
10月31日から、私は携帯電話とネットは使えません。
面会とかもどうなるのかまだ分かりません。
マネジャとは連絡を常にとるつもりです。
HPのチェックもしてくれます。
ありがとうマネジャ。

2002年10月29日(火)04:40

昨日は早朝からずっと動いてて、入院相談の疲れとストレスで薬飲んでも眠れないぞ。
入院について母と会話した日はいつもそう。

私具合悪いのに、母ってば私に頼っちゃって、一緒だと電車の乗り換え駅すら見ててくれない。

ちなみに本人に判断力がない為に親の判断で入院させるでなく、任意入院にしないと危ないことを、友達に相談して初めて知りました・・・。
無知って怖い!
教えてくれてほんとに助かった。
だけど母に事情を説明しても「あらそう」って感じ。
そのほかの事も何にも知らないのに不安にならないのか?
あんなに費用のことを気にしてるのに~。

見学の後、あなたウチにはたくさんお金があると思ってるんでしょう、このままずっと入院する気なの?!ってまだ入院もしてないのに怒られた。「社長でも何でもないのよ!」どうしてそこで社長が出てくるのー。

そんなに金持ちとは思ってないけど、別荘建ててるから単純に普通より余裕ある方なんじゃないかと
漠然と思ってます。はい。

それ言ったらあなたの為に別荘売れって言うの?!って。
いや私そこまでお金かけないと思う・・・ なんか惨めになってきた。
お金のことは気にしなくていいってきっぱり言ってくれたのに~。

あの時は申し訳ない反面いちおう嬉しかったけど、やっぱりそんなもんなのか・・・
この調子じゃ、気になっちゃってゆっくり休むどころじゃなさそう。

今、集中力が全然ないのだ。
先生の質問にも頭が働かなくて思い出せなくて答えられない。
うー胃が痛い。
明日からまた出来るだけ調べなきゃ。
入院について注意事項の思いつく方いらっしゃいましたら、何でもいいですのでどうか教えてください。

2002年10月30日(水)09:31

「あたしの為に別荘くらい売ってよー!!あたしと別荘とどっちが大事なのよー!!!」

と泣き喚いて暴れられるかどうかがポイントだと、友達に言われました。

むーん私にはあまり出来そうにないが・・・。
納得するヒントではあるのでした。

昨日母親が言ってた。

「そういえば、あなたってお姉ちゃんと違って、寝転んで暴れてダダをこねるっていうのを一度もやったことがなかったわ」

1歳違いのお姉ちゃんが寝転んでダダをこねていた頃なんて、多分わたしは1、2歳だったろう。覚えていないぞ。
最近わかったけど、私の記憶はだいたい3歳からあるみたい。

ところでマジな夫婦喧嘩くらい子供の目の前でやるもんじゃないよな。
神様に頼めば叶うと思っていた私は、隠れてそっと「おとうさんおかあさんけんかしないでください」と、泣きながら紙に一生懸命書いていた。 

ここから都内の大病院の精神科閉鎖病棟に入院します。

2002年10月31日(木)

入院はじめての食事。食堂に皆で集まる。
一番すみっこのテーブルが誰もいないので座る。

「今日新入りさん居るんでしょ? どこ?」
「新入りさんココー!」

隣のテーブルの女の子に居場所を明かされる。
数名の女の子達が「よろしくー」と挨拶してくれる。
おずおずと「宜しくお願いします」と返す。

”新入りさん”って呼ぶのか・・・現実で初めて聞いた言葉。

食後、5人でトランプの大貧民をした。
「革命」と「縛り」と「8切り」を覚えた。

18歳のY香ちゃんが
「私もまだ4日目なの。みんないい人だよ、でも盗難だけは気をつけたほうがいいよ」と教えてくれた。
「・・・何を盗るの?」と訊いたら、アクセサリーとかお財布だそうだ。

Iちゃん、Sちゃん、Nちゃん、N子ちゃん・・・少し名前を覚えた。

ちっさなデプロメールとドラールしか出なかった。絶対に眠れない。
9時消灯で、暗闇でコレ書いてます。
10時過ぎ追加眠剤を飲むが眠れず。
1時また貰いに行ったらアモバンが出た。

2002年11月1日(金)

左のほっぺたと耳を血の池に浸して目覚めた。私の血!?
体が動かない。廊下で倒れたらしい。みんなの騒ぐ声。
看護婦さんが「どこが痛い?!どこが痛い?!」と怒鳴る。
点滴を挿され、もう片方の腕にも何かつけられベッドに乗せられる。
ガラガラと凄いスピードで運ばれる。流れる天井。たくさんの顔。
「血圧○です!」「ちょっとすみません!」
テレビドラマみたいだなぁと思う。

CTスキャンの後、あごを6針縫った。
自室のベッドに戻され休む。
ポータブルトイレが置かれたが使いたくない。
その後またトイレに行きたくてちゃんと部屋を出たはずが、また廊下で意識を失ってしまった。
看護婦に起こされ、自分でも驚いた。部屋に連れ戻される。
「部屋から出ないで」と言われる。
今度は壁づたいに崩れ落ちたらしく無傷。良かった。

怖いよ・・・知らないうちに倒れるなんて。
顔に傷はカンベンしてくれ。

2002年11月2日(土)

まだ2時かよ~夜は長いな。
でも名前も判らない眠剤でまた気を失うのはご免だ。
デプロメール減らしましたから、って言われた。
デプロによる貧血で倒れたと思われてるようだが、眠剤のせいで倒れたとしか思えない。
デプロメールで貧血おこしたことなんてないぞ。
そもそも、昔から貧血ではあるけど意識失うなんて初めてだ。

部屋の窓(開かない)からオリオン座がよく見える。

一生懸命訊いたのに安定剤だとか適当なこと言いやがって、知らないで薬配布するんじゃないよ!M田!!
お陰で顔に怪我したじゃないか!
そんなに安全なら自分で飲んでみろ!

意見は投書箱に入れてくださいと言われたので

「薬を配布してくださる方は、患者に質問された時に相応の知識があって当然と思うのですが」

と書いて、ナースステーション脇の箱に入れようとしたが、いちいち箱に入れるまでもないと思い、そこにいた当直の看護婦M田さんに直接読んで貰った。

そしたら、こんな短い文で”薬を配布してくださる方”って書いてあるのに
「これだと誰宛だか解らないから看護婦あてって書いて」だと?!
偉そうに「看護婦だって薬の勉強はしてますよ」だと?!
勉強してようがその場で説明できなきゃ意味ないだろ!!!

皆で食堂で食べるのキツくなってきた。
それにしても我侭な人多いな・・・
実害はまだないけど面倒くさそう。
部屋に篭っているのが楽。

アゴの縫いあとがどうなってるのか心配。
なんか入院ってつまらなくなってきた。
女性のみの病棟だから居づらいのかな。
いや、なんで入院したんだっけ?
今のままじゃ怪我しに来ただけだぞ・・・。

今日は病棟内のピアノを弾いてみたが、ペダルはきかないし音も変。

2002年11月3日(日)

外に出られないのがこんなにストレス溜まるとは・・・。
今まではいつでも出られるから気付かなかったんだなぁ。
食事は3食きちんと食べられています。
血圧上げる薬と吐き気止めとデプロメール出されてます。
あとパキシル、デジレル、サイレース。
夜は眠れません。微熱があり、血圧は90-50位です。

10代~30代の女性のみの病棟で、ネームプレートを見て数えてみたら48名居ます。
私が居るのは2人部屋ですがまだ一人で使っています。

2002年11月4日(月)

Y子ちゃんが来て、私と喋っていたNちゃんに
「私、結婚するの。○○Y子になれますように、って祈っててね」
と言った。Nちゃんは「ウン」と言ったが、Y子ちゃんが去ると
「ワケわからん・・・」と言った。

私と同い年のNちゃんはボーダーだと言う。
彼女のかかとがガサガサなので、部屋に呼んでニベアを貸した。

「ここみんな楽しそうだよね」と私は言った。
「そんなことないよ、みんな疲れてるよ」
「何に?」
「ここの空気。アタマおかしくなりそうじゃん」

持田香織と中山美穂に似てるN子と女優のナントカに似てるS子が好き。
2人とも二十歳。性格もよい。また大貧民をして遊んだ。
しかし体中がタバコ臭い。廊下全体が煙で充満してるんだもんなぁ。
どうしてこんなにタバコ人口が多いのだ?
女性のみの病棟なのに、吸わない人のほうが少ない。

2002年11月5日(火)

同室の相手が出来ました。
毎日3食、きちんと摂って、4日もお通じがない。
体重はまだ39kg。
部屋の外に出るのが億劫で寝てばかりいる。

退院する人にはみんなが涙を浮かべ
「二度と戻ってくるなよー」と言う。刑務所みたいだ。

2002年11月7日(木)

今日から絵を描き始めた。
今日から、と言っても明日も描くかは分からない。

清楚な美人でストレートロングヘア、身長170cmでカッコいいと思っていたS子に
「カッコいいね。モデルみたい」と言ったら、本当に元JJモデルだった。

閉鎖病棟で描いたイラスト、その1。
下書きなしの色鉛筆画です。

2002年11月8日(金)

今日も絵がひとつ完成。
物凄く歌の上手い子発見!
部屋に閉じこもって歌っている。
ドアの前に立って暫く聴き入る。
他の子が教えてくれたところによると、傍聴されてるのを知ると歌ってくれなくなるらしい。
とても照れ屋だそうだ。

タバコ人口の件だが、ストレス発散のために、この病棟で初めてタバコを覚えた女の子も多いらしい。

閉鎖病棟で描いたイラスト、その2。

2002年11月9日(土)

絵がもうひとつ完成。
ほのぼのとは言い難いがタッチはいつも通り。
鉛筆削りが10:00~16:00の貸し出しなのでその間に描くのだ。
5時間あれば1作できる、というところかなぁ、葉書大の紙にのる絵は。

トランプ中に中絶の話になる。
二十歳で3回経験があるという元キャバクラ嬢N子は、ここ毎年一回のペースでしているらしく、「年中行事」と言っていた。
これは冗談にしていいことなんだろうか。
それともいつも明るいN子も、本当は辛すぎて冗談にしたいのだろうか。

トランプ仲間のYちゃんが「子供うめなくなっちゃうよ?」と言ったら「だってつけるの嫌いなんだもん」と答えていた。

自身の危険と向き合うことを無意識に避け、誤魔化して生きる。
ドロ沼。苦しいのに「やめなきゃ」という事を思い出すことも出来ない。
N子もまだ気付かないだけで、ほんの少し昔の私と同じなのだろうか。

閉鎖病棟で描いたイラスト、その3。

2002年11月10日(日)

絵がもうひとつ完成(今日は無理やり)。
また大貧民をした。
病棟内のあちこちで陰口の言い合いがある。
気性の激しい人が多いので言い争いも多い。
こういうのって病気のせいなのか地なのかわからない。
あたらずさわらず暮らそう。

閉鎖病棟で描いたイラスト、その4。

2002年11月11日(月)

絵がもうひとつ完成。昨日のよりはいい感じ。
いつものように元JJモデルのS子とキャバクラ嬢のN子とイラストの物凄く上手なYちゃんと一緒に、七並べと大貧民をした。
みんなで大声で「DAY DREAM BELIEVER」「翼をください」を、ヤケ大合唱しながらゲーム。
適当にハーモニーを作れる子がいるので気持ちいい!
楽しー! 

閉鎖病棟で描いたイラスト、その5。

2002年11月12日(火)

絵がもうひとつ完成。今日は午前中で終わってしまった。
夕方、トランプ仲間で本を見ながらポーカーをしてみる。

元モデルのS子のプライベート生写真を怪しまれながら力づくで2枚GET。
やった!見たい方は今度お会いしたら是非みせましょう。

ものすごく美人なS子の写真、今でも持っています。

閉鎖病棟で描いたイラスト、その6。

2002年11月13日(水)

母が来た時のみ、しかも中庭のみの外出の許可が出ました。
マネジャに会って自由行動できる日はもう少し先になりそう。がっくり。
私の病棟では院外外出許可がないと家族しか面会できません。

今日は2回泣きました。面会中と診察中。
主治医とケースワーカー、そして両親と私で面談。

母親がみんなの前で
「こんなことをする人間は私の家系にはありませんから」
と言い切った。
じゃあ私は誰の娘?

実家には帰りたくないです、退院先はまたマンションがいいです。
私はワーッと泣けないので、普通に喋りながら目から水が流れて、顎を伝ってポタポタ落ちます。

新しい絵が昨日よりも早く完成。日々描くのが早くなってくるようだ。

閉鎖病棟で描いたイラスト、その7。

2002年11月14日(木)

雑誌の写真を見てボールペンでデッサンしてみたら下手だった。
線が汚いです。何かを見て描くってのはまた難しい。
まあ昔からボールペンでは絵も字も上手に描けないんだが。

なんか憂鬱です。寝てばかり。
ピアノを予約して少し弾きました。
「少年時代」をリクエストされて楽譜を見ながら弾きました。
「大きな古時計」を弾いたら遠くでIちゃんが歌ってくれてる声が聞こえた。

2002年11月15日(金)

ピアノを弾いている時、3歳年下のY子に
「惚れた!友達になってくれない?返事はゆっくりで良いから」
と名前や携帯電話番号、自宅の住所、電話まで書いた紙を手渡された。
「いいの? 番号まで・・・」
受け取っておいたが、彼女の言う友達ってどういうことなのか、今の私には解らないので何も返事できない。

今日は夕方からピアノの調律が入るとのこと。
朝のミーティングでその旨発表されるとみんなで拍手喝采。
この病棟はピアノを弾く人が凄く多い。
調律でペダルだけでも何とかしてくれることを期待。

ピアノの調律師さんは、冴えないサラリーマンといった風貌にもかかわらず、まるでアイドルのように大人気。
女性陣に囲まれて仕事を終え、「キムタクになったみたいだ・・・」と、胴上げでもしそうな勢いの黄色い声の嵐の中帰っていった。
みんな退屈してるからささいなイベントにも盛り上がる。
私もそのひとり。

ペダルがちゃんと直ったからこれからは曲を選ばずに弾ける!!

夕食後、トランプ仲間の部屋でCDをかけてカラオケパーティー。
めちゃくちゃに踊りまくって楽しかった。

2002年11月17日(日)

絵がまたひとつ完成。
夜、眠れないのに横になってなきゃいけないのが辛くてたまらん。
シーツの上で足を擦り合わせながらもがいています。
昼はけっこう動いているのに、消灯後ベッドでじっとしているのがキツイ。
ちょっとハイかも・・・。入院前あんなに鬱々だったのに。
3食完食するし、ラジオ体操も毎朝しちゃったりして。
でもそれだけでもう腹筋が割れてきたよオイ。

閉鎖病棟で描いたイラスト、その8。

2002年11月19日(火)

私は、例えば6畳一間の風呂なしアパートで暮らす覚悟はない。
だけど今の広い部屋を維持できるだけ稼ぐことが出来るか、まだ判らない。
無理なものは無理? それとも頑張れば叶わない事なんてない?
これまでは、いつかきっと治ると思っていたから、限界ギリギリでも働いて生活レベルを保ってきたのです。
だけど、もしそれが出来ても、代わりにずっとあんなに苦しいなら、それをやる意味は私のどこに見つければいいんでしょうか。
それとも、どう生きても苦しいんでしょうか。

2002年11月27日(火)

眠れん。サイレース2mg、デジレル25mg2錠、ダルメート15mg、アモバン。
もう一回だけ追加眠剤(ベンザリン)を貰えるんだけど、まったく眠くないしイライラもしていない上に、今日の夜勤の看護婦が嫌いなので日記を書くことにした。

今ベンザリンを飲んで部屋に帰ってきました。
それはナースステーションに思いがけず好きな看護婦が居たから。
眠くて疲れてるのに眠れないのはツライけど、全く眠くなくて落ち着いてる時は寝る必要ないよなぁ・・・違うんだっけ?
生活のペースが乱れるから夜は薬飲んででも休めって言われたんだっけ?
でも生活のペースが乱れるとどうしてダメなんだっけ?
会社員じゃあるまいし。

今、2時の見回りが来ました。1時間ごとに見回りが来ます。
横になって休んでるフリ。手の震えが止まりません。
耳の中でザザザッという音がする。暗いドラマの効果音の様な。

昼はアカペラで「AMAGING GRACE」を3人で練習したり、新しく賛美歌も覚えて歌ってみてます。かなり大声です。酸素欠乏します。
夕食後は浜崎あゆみのトランスで踊り狂います。
汗だくになります。大騒ぎです。でも眠れません。
ラジオ体操もして、3食ずっと完食してる良い患者です。
騒ぎも起こしません。仲良くしてます。

殆ど徹夜で3日目ですのでかなり頭はおかしくなってきてるけど、今は気持ちが落ち着いてます。
ピーコのエッセイ「片目を失って見えてきたもの」を読み始めました。
一章読んでは泣いて一章読んでは泣いて。

イラストは1日だけ休みました。なんか描く気しない。
しかしテレカ無くなるの早いよ、公衆電話しか外と繋がり無いんだもん。
廊下の両端は鉄の扉で施錠されてるし、窓もどこも開きません。
空気悪いことといったら。
それにこんなとこに女性のみで60名、ワンフロアに60名だよ、もっと居るかな。
新患さんが絶え間なく増えていきます。
女性だけってやっぱり不自然だ、しかもみんな病気だ、普通の人が入ってもおかしくなりそうだぞ。

という訳で、もっと中庭とかで遊んでもいい病棟もある様なので、移りたいって申請してます。あと男性だって居た方がいいよ、行儀悪くなっちゃって大変だよ、女子校ってこういう感じなんでしょうか。
スポーツもしたいって要望出してるんだけど、会議が一週間に一回だけだし主治医に会えるのも同様だから、許可もそのペースで下りるんです。
一日一日の長いことといったら!!

とりあえず私の身元引き受けは実家になるようです。
退院後また一人で暮らすのは無理と言われたも同然なので、実家に居る練習をしなくちゃいけません。
私もとりあえずそうしてみることにしました。
相変わらず家族以外との面会は全くできません。

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あれからずっと眠れなくてハンパでなくきつくなってきた。
悪夢が酷くて、眠りかけると恐怖で体が拒絶反応を起こす。
ガクガクして上手く歩けない。3日間まるまる起きてる事になる。

父親が面会に来てくれた。というか来させた。
「眠れないのは思い込みだ」と言われる。
病院の前の河原を歩きながら怒鳴り合い。
涙と鼻水おかまいなしで喰らいつく私に逆ギレして帰ろうとする父。
フラフラで父の歩調について行けない私は、父の姿が見えなくなると、しゃがみこんで嗚咽した。
すると何時の間にか父が戻って来て、ポケットをごそごそいじり、ハンカチを渡してくれた。私はそれで顔を拭いてドロドロにした。

「私どうしてこんなところに居るのよー」と酸欠でクラクラしながら泣き叫んだ。
「何度も頑張ったけどダメだったんだもんー、頑張ったんだもんー」

病院に戻る途中、父が小さくひとこと、「いつか治るよ」と言った。初めて温かさを感じた。
私は父が帰ったあと、ロビーのソファで30分弱だが「眠れた」のだった。
夢をみたのではなく!
卓球台で騒いでいたトランプ仲間のS子が、「○○(私)、眠れたー?!」と叫んでくる。
「眠れた!ありがとー!!」と叫び返す。

父に「治るって言ってくれてありがとう。安心して、少し眠れたよ」と電話で告げた。 

2002年11月28日(水)

黒目がちで澄んだ瞳と素朴なショートヘア、服装は無頓着なパンツスタイルのみ、直線的な体つきの剣道少女。
ゆっくり言葉を選びながら、一点を見つめて喋る。
途切れがちのハスキーな声。
18歳の中性的な彼女は自分を「僕」と言う。
彼女の口からは余分な飾りは出てこない。
誰にでも、どんなに理不尽な子でも、その相手が泣いていればすっと近寄り、頭を撫で、話を聞いてあげる。静かにただ傍にいる。
いつまでも。

トランプ仲間で元キャバクラ嬢のN子(二十歳)が、「僕」に恋愛感情を持ってしまったそうだ。
N子を見ていると男性を本気で好きになったことはないように思える。
毎日のように手紙の文面に驚くほどのテクニック(一度聞いてみてさすが自称8店舗No.1!と感心した)を駆使して、自分に惚れている、かつどうでもよい男性に、指輪や洋服を少しも悪びれずに買わせているN子だが、「僕」への想いはまるで中学生みたい。
だって小さな紙切れの手紙の交換やすれ違い様の一言だけで一喜一憂し、筋肉注射を打ってくれと看護婦に頼むほど自分をもてあましているのだ。
「どうしよう、私、異常かなぁ」と言ってばかりいる。
私はその想いの丈を「それでいいんじゃない?変じゃないよ」と聞くしかできないのだが、少し羨ましかったりする。
トランプ中にも短いメモを貰っただけで満面の笑顔で舞い上がっている。
その様子がとても可愛くて、そして私からは何だか遠い表情に見える。

寝る前に突然「僕」に
「○○(私)ともっと話がしたい。○○は魅力的だから」と言われた。
すごく嬉しくて緊張した。
喋るのは苦手、踊りと歌とスポーツしか安心して自分を出せない、と言ってみた。それでもいい、と「僕」も、その時一緒に居合わせたCOCCO好きの元気なM美も言った。
3人で明日の昼食後に廊下の端に待ち合わせることにした。
それぞれと抱き合って確かめてみようとM美が提案した。
実は私もN子に触発されて、もっと若かったら恋したろうなぁと「僕」に男性的な魅力を感じていたので、実は内心不安だったのだが、彼女としっかり抱き合ってみても性的な刺激は感じずに済んだ。
M美は普段からすぐ私に「○○ー!!」と抱きついてくるので慣れっこだ。

食堂で一人で食べている私の隣へ「僕」が来た時、「ひょっとして、女の子の方が好き?」とストレートに訊いてみた。
彼女は少し考えて、性同一性障害の自覚が少しあると言った。
「うーん、でも、好きになるのは、やっぱり、男の人、だな・・・」

なんだか安心した。
答えがどっちにしても彼女はいい子なので仲良くしたいが、後で自分自身ややこしくならないように一応確認してしまったのだった。

閉鎖病棟で描いたイラスト、
その9。
閉鎖病棟で描いたイラスト、その10。

以上で病院で使っていたノートに書かれた日記は終わり。

あれから私は毎日ピアノを弾きました。
病院で出来た友達に何枚もイラストを描いて渡しました。

Yちゃんと作品を見せ合って意見を交わし、英語の歌を一緒に覚えて歌いました。
看護婦さん達の個性にも慣れて、自分の辛い思いを話し涙を流しました。
クリスマス会では病棟の仲間と踊りまくりました。
ポスターコンクールでグランプリを取り表彰されました。
私を見る度にいつまでも我が事の様に喜んでくれた補助のN井さん。
一緒にピアノを聴いていた時、突然私にキスしたN子。
喧嘩して言い過ぎて、部屋に謝りに行った。
いつも「ショパン弾いて?」と私に頼むWちゃん。
私が暗譜で弾けるショパンはノクターンの1番だけだったのに、何度も何度も頼まれて弾いた。一曲ごとにWちゃんは部屋に戻って泣いた。
最後の日にも「ショパン弾いて?」と言われ、「もう退院するから、弾けないんだよ」と答えたら「退院、しないで?」と何度も繰り返した。
兵庫から入院してきたY!人物デッサンがもの凄く上手で、ジーンズがよく似合う細身で格好いい関西弁の女の子。
家が遠いから両親がなかなか来れずずっと外に出られないのに、いつも明るくて温かくて大好きだった。
画用紙1枚に細かくたくさん絵とメッセージを書いて渡してくれた。
「HAPPY LEAVING HOSPITAL」の飾り文字。
私との思い出や、私のいい所や、たくさんのエール。
息が詰まるくらい嬉しかった。額に入れて部屋に飾るから。
たくさんの手紙。
「僕」からは細い紙を結んだもの。ほどいてみたら
『初めて見た時の瞳の清々しさ忘れない。○○大好き!』
退院する時、ナースステーションのドアを閉めるまで見えていた、手を振る皆の顔。拍手。
最後に私の目に映った、同い年で現役国際線スチュワーデスの清楚なMちゃんの涙。
話を聞くしか出来なかったけど、だけど、もう死んだりしないでね。

入院する前はこんなに情が沸くとは思いませんでした。
生活を共にするって、精神的に大きな影響を受けざるを得ない。
当然、家族と暮らすようになった私にも課題がたくさんある訳だけど、「ゆっくり、焦らず」を看護婦さんや友達に散々言い聞かされて、2002年12月28日、病棟内でよく言うところの”シャバ”に出たのでした。
 (ちなみに外泊は”仮出所”!) 

振り返ると躁ぎみの状態にあったため、

元気に見え、早く退院できたようです。