寂しくて死にたい

~ 生い立ちから絶望まで ~

意外と多くの人が、こう思ったことがあるのではないでしょうか。

友達や恋人とのトラブルで思い詰めて、かも知れません。

「なんとなく寂しいから死にたいかな……」という漠然としたものかも知れません。

その「寂しさ」は、一瞬なら、少しなら、大抵の場合はやり過ごせるものに思えます。

友達に話を聞いてもらったり、お酒を飲んで騒いだり、好きなことをして気分をリセットしたり、「寂しさ」と上手に付き合っていける人はたくさんいることでしょう。

ただ、それがとても長い時間だったとしたら。

それを耐えていけるだけの心が準備されていなかったら。

晴らす手段を知らなかったら。

私は、寂しさがきっかけの病で「死にたい」と思いました。何日も、何年も、思っていました。

私は、多くの人がそうであるように「死んではいけない」と教えられて育ちました。

毎日「もっと辛い人がたくさんいるのだから」と何度も自分に言い聞かせました。

それでも、どうしても、何をしても、「死にたい」という欲求から逃れ切ることが出来なかったのです。

母親に抱かれて。0歳。

母に愛されたい

私が望んでいた相手は、誰だったのか。

友達でもなければ、恋人でもありませんでした。

それは、この世に生まれて初めて出会った人間、実の母親でした。

私は記憶に残っていないような幼少時代からずっと、ただ、母親から愛されたかったのです。

子供なら誰でもそう思うだろう、と言う人もいるでしょう。

母親に愛されていない子供などいない、と言う人もいるでしょう。

私自身、果たして実際に母親に愛されていなかったのか?と振り返れば、今はそうは思っていません。

けれど「本当に愛されていたのか否か」は、私にとってさして重要なことではなかったのです。

育っていく中で、母親に”愛されていないと思ってしまった”。

それを修正する、あるいは諦める機会が無いまま大人になってしまった。

これこそが私の「死にたいほどの寂しさ」の理由でした。

「母親に愛されていないのでは……」という疑念は、他に頼るもののない過敏な幼児にとって生死に関わる一大事です。

「この人に見捨てられたら生きていけない」という不安。恐怖。絶望。

幼ければ幼いほど、世界が狭いため強い危機感に陥ります。

私は愛してもらうため、本能的に必死に良い子でいました。

いつも母の顔色を窺い、期待を察知して先回りし、仕事や家事を手伝い、相談相手になり、精神的に癒し、優越感を抱かせ、ただただ母に奉仕し尽くすことで、実は母の愛情をどうにかして勝ち取ろうとあがいていたのです。

母の思う通りの、母が他人に自慢できるような娘でいること。

本当の友人を作ることを知らない、閉鎖的な性格だった私が生きながらえる手段は、それだけでした。

保育園の卒園式にて

自分の気持ち」が無い大人

母に愛してもらうには、認めてもらうには、いつ何時でも、母にとって頼りになる私でいる必要がありました。

自分の悩みや辛い気持ちなど、間違っても口にできるはずがありません。

愛されるためには、自分の本当の気持ちなど絶対に考えてはいけなかったのです。

絶対に考えてはいけないものなど、無いものにしてしまうしかありませんでした。

そうして私は、自分の気持ちが全く無い、いいえ、正しくは自分の気持ちが分からない大人になりました。

好きか嫌いか、楽しいかつまらないか、嬉しいか悲しいかなど、ハッキリ感じたことも、考えようとしたこともなかったのです。

もちろん、寂しいかどうかも。

私が物事を判断する時、私自身はそこにありませんでした。

「どうすれば母が気に入るか?」 これしかなかったのです。

自宅にて。7~8歳頃。

家族関係

私の母は、鬼ではありません。暴力も振るいません。

むしろ世間で言うところの、いたって普通の常識人です。

決して器用な方ではないですが大変な努力家で、独学で公務員になり、私の小さな頃からずっと保育士の仕事をしていました。

父は有名企業の会社員で、これまた同じ会社で勤め上げました。

共働きでしたが、母は家事育児(うちは二人姉妹です)を一手に引き受けており、絶えずせわしなく動いていました。

毎晩のように仕事の書き物をしていたり、しょっちゅう這いつくばって床を磨いていたりと、見ていて申し訳ないくらいでした。

料理もきちんと三度三度、栄養バランスを考え作ってくれました。

父親は、いつもほぼ定時で帰ってくるのですが、コミュニケーションがほぼありませんでした。

私にとって父の印象は「毎日働いてお金を稼いできてくれる、登山が趣味の人」でした。

一歳違いの姉は、物事をあまり深く考えない、おっとりした性格でしたが、やはり対人関係が得意ではなく高校時代に一時登校拒否になりました。

ひたすら忍耐・根性で乗り切ろうとする妹の私と違い、姉は家族に頼ることには比較的慣れており、母と私で常に話を聞いて助けてあげなければいけない「弱い」「不器用な」存在でした。

お金には困っていませんでしたし、大学も当たり前のように行かせてもらえました。

誰から見ても何不自由ないごく普通の家庭に見えたでしょう。

私もそう思っていました。

たとえ現実は、私自身が、学校やバイトや会社へ行くのが怖くてたまらず、集団に溶け込む演技に冷や汗を流し死にもの狂いだったとしても。

他人を恐ろしいと感じる気持ちが、家族の誰よりも強かったとしても。

家に居れば母、 姉、父の間で右往左往していつもハラハラし、落ち着ける場所などどこにも無かったとしても。

発症

我慢に我慢を重ねて、我慢していることすら自覚できないまま社会に出た私は、とある医療機器メーカーに就職しました。

学生時代と同様、人形のように大人しく真面目で従順で、周りを気遣い作り笑顔を絶やさず、言われたことはどんなに大変でも黙ってこなす完璧主義者でした。

「辛い」と感じることも、誰かに言うことも知らないままでした。

そして、不景気を憂えてIT関係の会社に転職し、会社員通算4年目の頃。

体が、言うことを聞かなくなりました。

足を引きずるようにして通勤電車に乗り、最寄り駅のトイレで嘔吐し、やっとの思いで会社に辿り着いても怖くて入れない。

帰りも同様です。家の玄関の段差ですら、もう辛いのです。足が上がらないのです。

遅刻や早退が増え、有給休暇も使い果たし、欠勤が増えていきました。

そして、自分でもなぜなのか分からず説明も出来ず、ただただ「辞めさせて欲しい」と上司に訴え、会社を辞めました。

高校、大学、就職……浪人すらしたことのない私の、初めてのドロップアウトでした。

会社の同僚の女性と

うつ病と言われて

それから私は、初めて自分の内面について考え始めました。

尋常ではない苦しさの原因をつきとめないと社会復帰できない、と焦っていました。

インターネットを徘徊しているうち、似たような悩みを持つ仲間の集うサイトを見つけ、急速にのめり込んでいきました。

自分が「対人恐怖症」というものらしいことが分かってきました。

対人恐怖症だと名乗る多くの人が、病院に通い、薬を常用していることを知りました。

同じく対人恐怖症の自覚者に多かった「うつ病」という病気を知ったのも、この頃です。

「まさか私が心の病気だなんて……」と思いながら、近所の精神科の門を叩きました。

簡単な問診で「うつですね」とあっさり言われ、薬が出されました。

家では誰にも何も話しませんでした。

会社を辞めただけで「昼間に近所を出歩かないで欲しい」と言うような母です。

ですが同じ家に住んでいたため、通院は早いうちに母の知るところとなりました。

案の定、「私の娘が精神科に通うなんて!」と頭を抱えられました。

母から見たら非の打ちどころの無い、心の拠り所にしていた優等生の私だったのです。

仕方がありません。

でも私は自分を責めると同時に、母の態度に深く深く傷ついていました。

母は私の通院の日を知っていても、何も訊きませんでした。

私はどんなに苦しくても働かないでいることだけは考えられず、半年休んだのち、大学病院で教授秘書のパートを始めました。

余暇では対人恐怖症やうつ病の仲間と集まるようになり、情報交換をしたり、会話の練習をしたりするようになりました。

望まない妊娠・中絶

浮き彫りになってきた寂しさから、男性依存気味になっていた私は、仲間のうちの一人と関係を持ち、一度きりで妊娠しました。

この時、どちらかというと道徳的に潔癖すぎた私は、「もう私の人生は終わった」と感じました。

人の道から外れたのだと、絶望の闇に突き落とされました。

相手はとても当てにできるような男性ではなく、一人で子供を産み育てようとする強さも無かった私は、悩みに悩んだ末、中絶を選ぶしかありませんでした。

「もし将来赤ちゃんを産むとしたら、その子にだけは寂しい思いをさせたくない。

大好きな人と結婚して、ゆったりと幸せに満ちた中で授かりたい。

出逢いを心から待ち望み、うんとうんと可愛がって育てたい」

そう思い描いていた私が、私以外に誰も味方の居ない赤ちゃんを身籠り、そのうえ自ら殺すことを選んだのです。

涙はどんなに流れても枯れるということがなく、家族に見られてさえいなければいつでも溢れ出て、止まりませんでした。

私がしっかりしなくては……と、歯を喰いしばってこの事実をどう受け止めるべきなのかを考え続けました。

「ゴハンよ」と階下から母に呼ばれては、何を食べているのか分からないままそれを口に運び、家族の視界から外れた途端その場に崩れ落ち、這って階段を上り自室に籠りまた泣きました。

みんな、私のしたことです。

みんな、私の責任でした。

このことは親に、特に母には絶対に知られてはいけないと、これ以上ないほど警戒していましたが、中絶手術の前日に、父親が私の手帳を見たことにより知られてしまいました。

大好きな母に「こんな子、もう一緒に暮らしたくない!」と泣かれました。

私は体をこわばらせ俯いたまま、「ごめんなさい」と繰り返すことしか出来ませんでした。

症状の悪化、家出

望まない妊娠。

望まない中絶。

母からの決定的な拒絶。

このショックがあまりに大きすぎて、私の症状は急激に悪化していきました。

苦しさのあまり、インターネット、図書館、知人、医者、カウンセリング、あらゆる手段を使って自分の苦しみの原因を、治療法を、調べまくりました。

ドクターショッピングの末、AC(アダルトチルドレン)問題に熱心に取り組む現在の主治医と出会いました。

その頃には、私の苦しみの原因は幼少期からの「寂しさ」であると分かっていました。

呼吸の苦しさ、不眠、震え、激しい不安、食欲減退……。

強まるばかりの症状を無視し嫌悪する両親と暮らすことが出来なくなり、家を逃げ出しました。

あまりの「寂しさ」に、何よりも先に体が耐えられなくなっていたのです。

アパートで一人暮らしをしながら、私はOA派遣社員として働きました。

薬を無理やり飲み「大丈夫」と何度も呟きながら電車に揺られる毎日が続きました。

母に愛されたかった。

愛されるためにひたすら頑張ってきた。

でも愛さていると感じることは無かった。

それどころか「ダメになった私」は「拒絶」された。

大人になってから初めて気付けた「寂しさ」。

それは無視してきた時間の分だけ、大きく膨れ上がっていました。

自力ではコントロールできないほどの破壊力を持って爆発し、私に襲い掛かりました。

記憶にないような幼い頃から蓄積されていた寂しさが原因の病です。

どんなに頑張っても、そう簡単にどうにかなるものではありませんでした。

派遣社員時代。
体重36キロ程度でした。

自傷行為と自殺願望

私はいつしか、疲れ切ってしまいました。

もはや自分の全てが許せず、「こんな人間、生きてて良い訳が無い」と思うようになりました。

そして、自分を心身ともに傷つけ、貶める行為をわざと繰り返すようになりました。

やがてそれは依存になり、中毒になり、いけないと分かっていても自分の力ではどうしようもなくなりました。

もっと、もっと傷つけばいい、といつも思っていました。

傷ついて傷ついて、ゴミのようにぼろぼろになれれば、その時こそ死ねるのではないだろうか。

他人事のようにぼんやりと思っていました。

「死にたい」という願望だけに支配され、眠ることすらおぼつかず、飲まず食わずでただ力なく横たわっているだけの長い一日、一日。

お金を稼がなければ生きていけない。誰にも頼れない。

なのに立つことはおろか、座っていることも出来ない……。

ひとすじの光も無く、あるのは耐え難い苦痛だけです。

それは、この世にいる限り永遠に続くものと思われました。

どうして「生きたい」などと思えるでしょうか。

夜、服を着たまま、真っ暗な海に入っていったこともあります。

大量服薬を繰り返し、緊急入院したこともあります。

同じような苦しみを持つ仲間が、次々と命を絶っていきました。

「私も一緒に連れて行って欲しい」

そう、心の奥底で叫んでいました。